井伊直虎の生涯をまとめてみた――大河ドラマ『おんな城主 直虎』を歴史研究家が解説
歴史上で「井伊」の名称と言えば、徳川四天王の一人・井伊直政や、その子孫であり江戸幕府の大老でもあった井伊直弼が有名だ。ゆえに井伊家は「井伊直政から始まる」、「彦根に始まる」と考えられがちである。 が、同家には1000年を超える歴史があり、最初の600年間は浜名湖の北に位置する井伊谷(いいのや)の地で刻まれていた。 井伊直虎は、そのうち22代宗主・井伊直盛の娘であり、24代宗主・井伊直政の後見人という立ち位置である。 ――あれ? 彼女は城主で、宗主じゃないの? と思われたかもしれないが、直虎は「女性」であるから、宗主として系図には載せられず、それでいて実質的に井伊家存続の危機を救った人物である。直政も直弼も、ひいては徳川家の栄光も彼女の存在なくして運命が変わっていた可能性は否定しきれない。 実は井伊家では、嫡流の22代宗主直盛に嫡男がいなかった。 そこで井伊家がとった方法は、直盛の娘(後の直虎)と直親を結婚させて、御家を存続させるという方法であった。 しかし……。井伊家は1000年超の歴史 最初の600年は浜松で
⇒【写真】はコチラ https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=1262023 そもそも井伊氏の本拠地・井伊谷は、遠江国(静岡県西部)に位置し、駿河(静岡県中部)を本拠地としていた大名・今川氏の支配下にあった。 西の三河国は徳川領で、北は信濃国の武田領、南は浜名湖を通じて太平洋。名だたる大名に囲まれ、そのポジションが非常に過酷であったことは想像できるであろう。 当時、国の「端」に位置する地侍たちは他国からのお誘いを最も受けやすく、かつ最も早く裏切る場所でもあるから、井伊家も常に今川氏の監視下に置かれ、常に翻弄されて生きてきた。 井伊家の男たちは次々に謀殺されたり、戦死したりして消えていったのだ。 例えば直虎が生まれた1535年頃から、彼女が女地頭(おんな城主)となる1565年までの30年間で生き残った一族は、直虎自身と井伊直政、そして築山殿(徳川家康正室)を産んだ姫、血の繋がりのない住職・南渓瑞聞の4名ほどしかいない。 実際、1565年当時は、後に宗主となる直政はまだ5歳であったので、井伊直盛の娘・直虎が、男勝りの名前を掲げて女地頭(女城主)にならざるを得なかった――結論から申し上げると、それが彼女が「おんな城主となった理由」である。 ここであらためて断っておくと、井伊直虎については圧倒的に史料が少ない。直虎の書状についてはわずか数点のみとされている。 城跡や神社、古戦場など、日頃から地元浜松で直虎ゆかりの史蹟を巡っている私にしてみれば、ドラマ化は激しく喜びを感じる反面、『どうやってストーリを描くのか?』不安でならない一面もある。 そこでこの先は周辺の史実を描くことで彼女の実像を浮かび上がらせるとともに、多少は誇張があっても映像で描かれるであろう逸話も織り交ぜて進めたい。今川に監視され続けた井伊家の過酷な命運
この記者は、他にもこんな記事を書いています
ハッシュタグ