井伊直虎の生涯をまとめてみた――大河ドラマ『おんな城主 直虎』を歴史研究家が解説
井伊家は平安末期から続く名家で、鎌倉時代には御家人「日本八介の一人・井伊介」としてその名は全国に鳴り響いていた。 直虎が生まれたのは、それから約300年後の戦国時代。 この頃の井伊家は、国衆として今川義元に従属しており、嫡男がいなかったため御家の存続に不安要素があったことは前述の通りである。実際、天文11年(1542年)、今川氏の命で出陣した直宗(21代)が田原城攻めにおいて討死すると、井伊家の繁栄に影がさしはじめ、井伊直平(20代)はある決断を下した。 「このまま直盛(22代)に男児が生まれなければ、娘の直虎と、傍流の井伊直親(なおちか・ドラマでは三浦春馬さん)を結婚させて、直親に井伊家を継がせる」 これに反発したのが井伊家の家老・小野和泉守政直である。 小野家は、小野篁(たかむら・9世紀の天才的貴族)を祖とするという一族で、本貫地は小野篁の墓もある赤佐郷小野(静岡県浜松市浜北区尾野)。政道は、今川氏の与力とも井伊家の庶子家ともいわれているが、いずれにせよ井伊家の家老であり同時に今川寄りの配下であって、跡取りについては次のように主張した。 「直盛の娘である直虎の婿にも、今川氏の縁者を迎えるのがよい」 あるいは 「自分の息子である小野但馬守政次を、直盛の娘の婿にすればよい」 小野氏は井伊家宗主の座を奪おうとしていた。そのため上記のように今川と小野寄りの主張を展開し、そして今川義元に対しても「井伊直平の子の直満・直義兄弟が、武田信玄に内通している」と讒言したのである。 直満・直義兄弟の両名は、弁明のために今川氏の本拠地・駿府(静岡県静岡市)の今川館へ出向き、結局、切腹させられた。 そのとき「我々は無実である。必ず、お前(今川義元)を呪い殺す」と言って腹を裂いたと伝わる。「我々は無実である。必ず、お前(今川義元)を呪い殺す」
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