井伊直虎の生涯をまとめてみた――大河ドラマ『おんな城主 直虎』を歴史研究家が解説
井伊家に対する殺害命令は、直満の子である直親にも下された。 直親は、当時の直虎の許婚者であり、婚姻後は井伊家宗主の候補者でもあるが、上級権力者である今川氏に命を狙われれば逃げないワケにはいかない。 『井伊家遠州渋川村古跡事』によると、直親は「病死」と発表して渋川の東光寺に身を隠し、そこから信州市田郷(現在の長野県下伊那郡高森町)の松源寺への逃亡を果たす。 一方、許婚(直親)の死を聞いた直虎は、世をはかなむと同時に、小野氏との縁談を断って直親への愛を貫き、自ら断髪。龍潭寺の住職である南渓和尚に「出家したい」と申し出た。 実は直親が生きていることを知っていた直虎の両親は、彼女の出家に反対したが、結局、南渓和尚が井伊家宗主の通称「次郎」という俗名と「法師」という僧名を組み合わせた名前を付けて、直虎を出家させる。 「備中次郎と申名は、井伊家惣領の名、次郎法師は、女(をなご)にこそあれ井伊家惣領に生候間、僧俗の名を兼て次郎法師とは無是非、南渓和尚、御付被成候名なり」(『井伊家伝記』) なお、この一件は流派こそ異なるが太原雪斎(今川家の軍師とされる僧侶)と同じ臨済宗妙心寺派の南渓和尚が考えた「策」であったことが後に分かる。 井伊家に大きな転機が訪れたのは、天文23年(1554)のこと。 この年、武田信玄・北条氏康・今川義元による甲相駿三国同盟が成立したことを契機に、翌弘治元年(1555)、井伊直親が信州から帰国した。直親を保護していた松岡氏が武田氏に従属したことや、今川氏に讒言した小野和泉守が死んだことなどから、もう逃亡する理由がなくなったのだ。 このとき「次郎法師」を名乗っていた直虎が「出家のため(帰国した直親と)結婚できなかった」と著す書物は多いが、実のところ還俗すれば婚姻は成立できるため少々ニュアンスがおかしい(これが尼だと還俗できないが、あくまで「次郎法師」という僧であるから還俗可能。方便ではある。しかし、そこが重要でもある)。 2人が結ばれなかった要因は主に2つ考えられる。 『もう二度と帰国はできないであろう』と考えていた井伊直親が逃亡先で別の女性(塩沢氏の娘・ひよとは別で帰国後)と結婚して娘をもうけており、出家までして愛を貫いた直虎が直親に失望すると同時に、井伊家嫡流の娘が傍流の男の側室になることを恥じたのであろう。 また、適齢期をとうの昔に過ぎていたことも大きいはず。 とにもかくにも、帰国した井伊直親は、井伊直盛の養子となり、次の宗主の第一候補となった。 つまり直虎とは姉弟(兄妹とも)の関係になったということである。 そして迎えた1560年、戦国史に残る最大の逆転劇が起きた。 桶狭間の戦いだ。 ◆ ◆ ◆ ※桶狭間の戦い以降の完全版は「BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)」で! <著者/戦国未来> 戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、全27回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載中。自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」 <コンテンツ提供/BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)> 【BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)】 日本で初めて歴史をテーマにしたポータルニュースサイト。今回の記事の他、以下のような記事を掲載。 ●『真田丸』感想レビュー第50回(最終回)「◯◯」 そして船は次へ向かって港を発つ ●完全版【井伊直虎の生涯まとめ】大河ドラマ『おんな城主 直虎』を史実からスッキリ解説!く許婚者の直親が信州・松源寺へ逃亡し、自らは出家す
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