ブライアン・ピルマン“ルース・キャノン=制御不能”と呼ばれた男――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第269回(1997年編)
1962年5月21日、オハイオ州シンシナティ生まれ。ピルマンは成人になってからプロレスとめぐり逢った“後天的プロレス人”だった。ハイスクール、大学を通じてフットボールで活躍し、1984年春にドラフト外でシンシナティ・ベンガルズ(NFL)に入団。1986年、カルガリー・スタンピーターズ(CFL)に移籍したが、シーズン・ゲーム3試合めで右足首を複雑骨折した。
このケガのすぐあと、スチューとオーエンのハート親子と運命的な出逢いを果たし、ハート家の地下道場“ダンジェン”でプロレス転向のための“改造手術”を受けた。デビュー当時のピルマンは爽やかキャラクターのベビーフェースで、カルガリーで武者修行中だったヒロ・ハセ(馳浩)とはツアー仲間だった。カルガリーにいたのは約3年間で、そのあとはジョージア州アトランタへ南下していった。
みんながあまりよく知らないピルマンは、5児のパパだった。ワイフのメラニーさんがいちどめの結婚でつくった娘さんがふたり。ピルマンがむかしのガールフレンドたちに生んでもらった、それぞれ母親のちがう女の子がもうふたり。ピルマンとメラニーさんのあいだにも4歳(当時)になるブライアンという男の子がいて、6人めのベイビーがメラニーさんのおなかのなかにいた。
ブライアンとメラニーさんのピルマン夫妻は、親権をめぐる裁判をくり返し、子どもたちといっしょに必死で“愉快なブレディ家”をつくろうとした。
でも、ルース・キャノンの影はやっぱりプライベートライフにも忍び込んできた。ピルマンとメラニーさんにとっては三女にあたる7歳(当時)のブリトニーちゃんのじつの母親で、ピルマンにとっては何人かまえのガールフレンドにあたるロッチェリーさんが、この2年まえに電話での予告つきのピストル自殺をとげた。ピルマンは、そのことでずっと自分を責めつづけていたという。
きっと、ピルマンはイントゥイションintuition(直感・直観、直観的洞察力)を大切にするタイプだったのだろう。メラニーさんは『ペントハウス』誌のカラーグラビアのなかでにっこり笑っていた。この人しかいないと決めたピルマンは、どこでどうコンタクトをとったのか――ここで時間を“早送り”する――本物のメラニーさんを探し出し、グランドキャニオンのふもとに呼び出していきなり結婚を申し込んだ。ちょっとクレージーなくらいがピルマンにとっては気持ちイイ関係ということになるのかもしれない。
WWEと契約したのは1996年6月。その4カ月まえ、エリック・ビショフWCW副社長とWCWのプロデューサーのひとりだったケビン・サリバンと衝突してWCWを解雇された。このピルマンとビショフの“不仲”には諸説があり、ビショフに近い筋のWCW関係者の証言によれば、ピルマンはWCWからのスパイとしてWWEのバックステージに送り込まれる計画だったのだという。
ピルマンとビショフの“口論シーン”はビデオ収録され、ビショフはカメラのまわっているところでピルマンに口頭で解雇を通達。そのままだとこのストーリーは信ぴょう性に欠けるということで、ビショフは正式な契約書類上でもピルマンとの契約を解除した。
この連載の前回記事
この記者は、他にもこんな記事を書いています
ハッシュタグ