ブライアン・ピルマン“ルース・キャノン=制御不能”と呼ばれた男――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第269回(1997年編)
フリーエージェントとなったピルマンは、まず中継地点としてECWアリーナに現れた(1996年2月)。リング上でプロモ・インタビューをおこなったピルマンは、はいていたジーンズのチャックを下げて、その場で用を足そうとしたが、たいていのことでは驚かないポール・ヘイメンECWプロデューサーがポリスマン的立場のシェーン・ダグラスといっしょにドレッシングルームから飛び出してきて、なかば力ずくでピルマンをリングから退場させた。
ECWを経由してビンス・マクマホンのいる場所にたどり着いたピルマンは――ビショフとは連絡をとらなくなり――結果的に“二重スパイ”のような形でWWEと正式契約を交わした。はじめからそのつもりだったのかもしれないし、途中で気が変わっただけなのかもしれない。ビショフとの密約よりも親友オーエン・ハートとの再会に心が傾いた、というふうにとらえると説明がつくのかもしれない。いずれにしても、真相はルース・キャノンのピルマンのみぞ知るところだった。
ピルマンの遺体を司法解剖したミネアポリス市警は、35歳のプロアスリートのピルマンの突然死の原因を心臓マヒと断定。検死結果からは心配されていたドラッグ類の陽性反応は出なかった。ピルマンの父親もピルマンが幼少のころ、心臓マヒで死去。ピルマン自身は、先天性の喉頭ガンで少年時代から30数回の手術を受けていた。
ほんとうはそんなつもりはなかったのだろう。ピルマンは、いつも寝るまえに飲むペインキラー(鎮痛剤)を何錠か口に放り込み、ベッドに入ったまま目をさまさなかった。ルース・キャノンは天国へ向かって打ち上げられたのだった。
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文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
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