更新日:2022年08月23日 11:35
スポーツ

純プロレスラーに変身したシャムロック――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第299回(1998年編)

 アメリカにおけるシャムロックの知名度とステータスを絶対的なものとしたのはUFC初期のホイス・グレイシーとの一連の死闘であったことはいうまでもない。シャムロックはMMA(ミックスト・マーシャルアーツ)というジャンルがまだ存在しなかった時代のMMAのパイオニアであり、まさに“時代の寵児”だった。  パンクラスには1996年まで在籍したが、契約問題でフロントと対立して同団体を脱退後はプロ格闘家として活動。MMAと映画俳優の二足のわらじをはいた時期もあったが、1997年2月にWWEと正式に専属契約(3年契約)を交わし関係者を驚かせた。  アメリカ国内ではあくまでもプロ格闘技からプロレスへの“転向”がセールスポイントだった。  アメリカのメディアはシャムロックがWWEのリングでいったいどんな試合をするのかに注目していたが、シャムロック自身はMMAスタイルにはあまりこだわらず、フィニッシュ技こそ格闘技色の強いアンクルホールドを愛用したが、かなり早い段階から試合中のポイント、ポイントにごく自然なリズムでロープワークを取り入れていた。  シャムロックのマイクアピールを受けて“3.16”のTシャツ、ベースボール・キャップ、デニムのショーツというおなじみのいでたちでリングに登場してきたストーンコールドは、シャムロックの挑戦を快諾する姿勢をみせたが、あとから入場ランプに現れたビンス・マクマホンは「キミたちに勝手なマネはさせない」とタイトルマッチを却下。結果的にはこのワンシーンが翌週のTVマッチの“予告編”になっていた。  ストーンコールド対シャムロックのWWE世界戦は9.14“ロウ”(カリフォルニア州サンノゼ、サンノゼ・アリーナ)の全米生中継版のTVマッチで実現したが、この試合はアンダーテイカー&ケインの“墓掘り人ブラザース”の乱入によってあまりにもあっけなくぶち壊された。  次回PPV9.27“イン・ユア・ハウス/ブレイク・ダウン”のメインイベントは、ストーンコールド対アンダーテイカー対ケインのWWE世界戦“トリプル・スレット”だった。  ストーンコールド対シャムロックの注目のシングルマッチは、その後、なぜかいちどもPPVの主要カードにラインナップされることはなかった。(つづく)
斎藤文彦

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