スポーツ

スコット・ノートン「ピース・ウィズインPeace Within」――フミ斎藤のプロレス読本#013【Midnight Soul編8】

 ハイスクールを卒業したあと、ホークもノートンも大学へは行かず、昼間は地元のジムでウェートトレーニング、夜はバーのバウンサー(用心棒)というフリーターのような生活をしていた。  プロレスラーになったのはホークのほうがずっと先だった。ノートンはたまたま出場した酒場の腕相撲大会で優勝してからアームレスリング競技に興味を持って、本格的にそっちのほうで賞金稼ぎをするようになった。  才能があったのか、ただ腕っぷしの力が強かったのか、ノートンはアームレスリングの全米選手権大会に3年連続で優勝し、ラスベガスで開催された世界大会にも優勝してしまい、シルベスター・スタローンの主演映画『オーバー・ザ・トップ』にもゲスト出演した。  しかし、アームレスリングだけでは生計は立てられない。けっきょく、生活のために何年間も肉体労働の仕事をしていた。  やっぱりプロレスをやろうと本気で考えはじめたのは30歳になってからだった。レスリング・スクールの授業料は2000ドル。これは貯金をはたいて支払った。  スクールでのトレーニングをひととおり終えると、オレゴンのローカル団体にブッキングされた。お金があまりなかったし、クルマがなかったら向こうへいってから困るだろうと思って、ミネアポリスからポートランドまで1日半かけて自分のトラックを運転していった。  オレゴンでは1試合ごとに50ドルのファイトマネーをもらった。これでは――とくにノートンの場合――食費にもならない。しかも、経費はすべて自己負担。プロレスラーはケガをするのがあたりまえのようなものだから傷害保険にも入れない。  いろいろ考えてみて、とりあえず毎月のアパートメントの家賃を稼ぐためにポートランドの酒場でまたしても用心棒のアルバイトをはじめた。 <プロレスってのはすばらしいビジネスだなんて、いったいだれがいった? 富と名声だとー?>
斎藤文彦

斎藤文彦

 ノートンは、どこでどうまちがってこんなことになってしまったのか自問自答をくり返した。(つづく) ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
1
2

⇒連載第1話はコチラ

※斎藤文彦さんへの質問メールは、こちら(https://nikkan-spa.jp/inquiry)に! 件名に「フミ斎藤のプロレス読本」と書いたうえで、お送りください。
おすすめ記事