ダグ・ファーナスのハンブルhumbleな気持ち――フミ斎藤のプロレス読本#033【全日本プロレスgaijin編エピソード3】
けっきょく、リハビリ・センターには6カ月間いた。ファーナスは、しっかりと2本の脚で立っていた。上半身の筋肉は半年まえよりもはるかにたくましくなった。医者はまるで目のまえで奇跡でも起こったかのような顔をしていたが、ファーナスにとってはすべて計画どおりだった。
「いまになって考えるとね、大ケガをしたことでオレはハンブルhumble(謙虚な、つつましやかな、おごり高ぶらない)になったんだ。ちいさな町で育ったから、なんでもすぐに手の届くところにあった。欲しいものがあれば必ず手に入ると思っていた」
「でも、それはまちがいだった。うまくいえないけど、病院を出てマイアミに帰ったとき、世界が新しくなったような気がした。家族や友だちに“ありがとう”っていいたい気持ちでいっぱいになった」
ホームタウンのコマース・ハイスクールの12年(高校3年)に復学したファーナスは、フットボール部に戻ってランニングバックとして活躍し、ハイスクールを卒業後はマイアミから近いノースイースタン短大に進学。
それから2年後にフットボール奨学金をもらってテネシー州立大に転学し、1983年の卒業と同時にNFLデンバー・ブロンコスにドラフトされた。
「プロでフットボールをやったのは1シーズンだけ。大学4年のときにパワーリフティング競技でスクワット881ポンドの世界記録を出したから、その道をきわめてみようと考えた」
ファーナスは1987年までにパワーリフティング29個の世界記録をつくった。ベンチプレス601ポンド、デッドリフト821ポンド、スクワット985ポンド、合計2407ポンドの数字も世界記録として残っている。
パワーリフティングで大物になったファーナスはニューヨーク、フロリダ、ミネアポリス、ハワイとアメリカじゅうのコンテストに顔を出すようになった。行く先ざきでプロレスラーと出逢った。
ミネアポリスではロード・ウォリアーズから、ハワイでは“マグニフィセント”ドン・ムラコからプロレス転向を勧められた。
「オレも子どものころからプロレスが好きだった。こういう体をしていると、いつかはリングに上がって闘いたいと思うようになるんだ。プロフットボールの選手たちのほとんどは、じつはプロレスファンなんだ。みんな、それを隠しているんだ。ほんとうだよ」
プロのフットボールを体験し、パワーリフティングで世界記録をこしらえたファーナスは、こんどは少年のころからのもうひとつの夢だったプロレスラーになる決心をした。
ジムのトレーニング仲間だったケビン・サリバンが、マンツーマンでプロレスを教えてくれた。1987年7月のことだ。
プロレスラーとしての道を歩みはじめたばかりのファーナスの身にまたしても事件が起きた。妻ジョディとの突然の別離だった。
中学のころからのガールフレンドで、交通事故にあったときも、高校、大学、そしてプロフットボール時代もずっといっしょにいてくれたジョディが、7年間の結婚生活のあと、ファーナスのもとを去っていった。
「14歳のころからずっといっしょにいただろ。家のなかにいても、外で食事をするにしても、知らず知らずのうちに彼女はオレの“所有物”のようになっていた。まわりのみんなも、彼女をそんなふうに扱っていた」
「もちろん、オレはそんなことに気がつかなかった。でも、そのせいで彼女は自分がいったいだれなのかわからなくなっていた。そして、ある日、生まれて初めてひとり歩きすることを望んだんだ。オレは3日間、カウチにうつぶせになって泣きつづけた」
ファーナスは、ジョディとの別れをハンブルに受け入れた。そして、プロレスをつづけているうちは結婚はもうしないほうがいいだろう、いまはプロレスのことだけで頭のなかをいっぱいにしておこう、と考えるようになった。
たぶん、これから何年かしたのちには、きっとジョディに「ありがとう」といえる日が来るような気がするのだ。(つづく)
※文中敬称略
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文/斎藤文彦 イラスト/おはつ1
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