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湖畔の殺人医師Dr.Death――フミ斎藤のプロレス読本#032【全日本プロレスgaijin編エピソード2】

湖畔の殺人医師Dr.Death――フミ斎藤のプロレス読本#032【全日本プロレスgaijin編エピソード2】

『フミ斎藤のプロレス読本』#032全日本プロレスgijin編エピソード2は「湖畔の殺人医師Dr. Death」の巻。ウィリアムスが住んでいるルイジアナ州ベントンは、同州の北端に位置する人口2000人のスモールタウン(写真は全日本プロレス・オフィシャル宣材フォトより)

 199X年  スティーブ・ウィリアムスが暮らすベントンは、ルイジアナ州の北端に位置する人口2000人のスモールタウン。テキサス州のボーダーラインまでは車で20分、ルイジアナのすぐ上のアーカンソーの州境までは30マイルちょっと(約50キロ)のディープサウスの町だ。  雪ぶかいコロラドの山奥レークウッドで生まれ育ったウィリアムスが深南部にやって来たのは、フットボール奨学金とレスリング奨学金を取得してオクラホマ大学に入学したときのことだ。  大学を卒業し、プロフットボールを経験し、プロレスラーになってから10年近くがたったいまでも、ウィリアムスはこのちいさな町から離れようとしない。  シュリーブポート空港からベントン・ハイウェイをしばらく北上していくと、ウィリアムスの家があるパーキー通りがみえてくる。  頑丈そうなヒマラヤ杉をふんだんに使ってつくられたお屋敷は、いかにもウィリアムスが好みそうなナチュラル・ウッドの色をした2階建てのバンガローだった。  家族は奥さんのタミーさんと10歳になる娘のストーミーちゃんの3人。もちろん、ペットの犬2匹、ネコ1匹もファミリー。サイプラス・レークというちいさな湖に面した家は、目抜き通りからはかなり奥まったところに建てられているから隣人はほとんどいない。  リビングルームの暖炉、地下のウエートルーム、裏庭のジャグジー風呂は、ウィリアムスが趣味の日曜大工でこしらえた。  ストーミーちゃんの子ども部屋には、たぶん3000個は軽く超すであろう縫いぐるみの動物たちが並べられている。これはウィリアムスが長期ツアーに出るたびに買ってくるおみやげの山だ。  ストーミーちゃんは、タミーさんがいちどめの結婚でもうけたひとり娘で、ウィリアムスは彼女のステップ・ファーザーということになる。でも、ふたりはとっても仲がいい。  ウィリアムスが家にいるときは、自家用ボートで湖に出て1日じゅう釣りをするのが夏の日課になっている。  1978年にホームタウンのレークウッド・ハイスクールを卒業したウィリアムスは、その年の夏にオクラホマ大学に入学した。大学にいた5年間、秋はフットボール、冬はレスリングと体育会系の生活をずっとつづけた。  フットボールではオール・カンファレンス選抜チーム、オール・アメリカン選抜チームに選出された。レスリングではNCAA全米選手権で――のちに1984年のロサンゼルス・オリンピックで金メダルを獲得する――ブルース・バームガートナーと優勝決定戦(ヘビー級)を争った。  レスリングでアマチュア資格がなくなった5年生の夏には、大学に籍を残したままアルバイト気分でプロレスをやったが、秋にはまたフットボール部に逆戻りしてコットン・ボウルとオレンジ・ボウルに出場。フットボールではつねに7万人、8万人の大観衆のまえでプレーした。  フットボール部のコーチだったバリー・シュウィッツァーさんは、午前中はレスリング部の練習、午後はフットボール部の練習というウィリアムスのアスリート生活に最後の最後まで付き合ってくれた。シュウィッツァーさんは、ドクター・デスの兄貴分だった。  ドクター・デスといういささか物騒なニックネームは、学生時代のウィリアムスがいつも顔じゅう生傷だらけ――擦り傷、切り傷、青アザ、赤アザ――にしていたことからついた名誉の勲章だった。  ウィリアムス自身はこのニックネームを気に入っていて「自分でつけたものではなくて、みんながそう呼んでくれた愛称。お金では買えないもの」とふり返る。
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大学を卒業し、ニュージャージー・ジェネラルズにドラフト
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