フレッド・ブラッシー “銀髪鬼”は愛すべき大悪役――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第7話>
ロサンゼルスの観客に別れを告げたブラッシーは、最後の晴れ舞台のため再びニューヨークに向かった。
ニューヨークでは、ロサンゼルスのプロレス番組がUHF局のスペイン語チャンネルで毎週水曜夜のプライムタイムにオンエアされていた。
ブラッシーは西海岸からやって来たパシフィック・コースト・チャンピオンとしてWWEのリングに登場した。
マディソン・スクウェア・ガーデンでのWWEヘビー級王者“ラテンの魔豹”ペドロ・モラレスとの連戦シリーズ第1戦は、ブラッシーの出血多量によるレフェリー・ストップでモラレスが判定勝ち(1971年11月15日=観衆2万2089人)。
第2戦のローマン・グラディエーター・マッチもモラレスがKO勝ちで王座防衛に成功した(同12月6日=観衆2万2000人)。
それから約1年後におこなわれたブラッシーにとっては事実上の引退試合となるモラレスとの3度めの対戦も、モラレスがレフェリー・ストップ勝ちを収めた(1973年3月26日)。
モラレスは無名の新人時代、ブラッシーのブッキングでロサンゼルスで仕事をもらった。ブラッシーは引退試合の相手にかつての“子分”のモラレスを指名したのだった。
ビンス・マクマホン親子はブラッシーにマネジャー転向を打診し、ブラッシーはその後、約30年間をニューヨーク州ハーツデールの海のそばの家で暮らすことになる。
ウエストコーストが好きだったブラッシーは、天気のいい日には必ず自宅の裏庭で日光浴をしていたという。
ブラッシーは、アントニオ猪木対モハメド・アリの“格闘技世界一決定戦”が開催されたさい、アリのマネジャー役として来日(1976年=昭和51年6月)。
アリのトレードマークの“大ボラ”はゴージャス・ジョージのプロモーショナル・スピーチのコピーだというのがそれまでの定説だったが、アリがジョージと思い込んでいた人物はどうやらブラッシーだった。ブラッシーは“歴史のエラー”を修正した。
ハルク・ホーガンが初来日したとき(1980年=昭和55年4月)のマネジャーもブラッシーだった。ブラッシーは26歳の新人だったホーガンに「この国ではスターはスターらしくふるまえ。そうすれば人びともキミをスターとして扱う」と教えた。
ブラッシーのアドバイスに耳を傾けたホーガンは、短期間のうちにスタン・ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアントらと並ぶスーパースターに変身した。
ニューヨークの悪党マネジャーとなったブラッシーは“ロシア人”ニコライ・ボルコフ、“イラン人”アイアン・シーク、ジェシー・ベンチュラ、アドリアン・アドニス、キラー・カーンといったヒール・グループのセコンドとして50代後半から60代を過ごし、1980年代後半に2度めの引退を決意する。
WWEはブラッシーを終身雇用し、テレビ番組の在宅モニターを依頼した。ブラッシーはプロフェッショナルの目で85歳まで“マンデーナイト・ロウ”と“スマックダウン”を視聴していた。
1965年(昭和40年)に日本で知り合った三耶子(みやこ)夫人は、38年間にわたってブラッシーを支えつづけた。ふたりが出逢ったとき、ブラッシーは47歳で、三耶子さんはまだ19歳だった。
“銀髪鬼”ブラッシーは、天国に旅立つその日まで“フレッド・ブラッシー”の完ぺきなヘアスタイルを守りとおした。
●PROFILE:フレッド・ブラッシーFred Blassie
1918年2月8日、ミズーリ州セントルイス出身。本名フレディ・ケネス・ブラッシー。1935年、デビュー。38年間、現役で活躍。WWA世界ヘビー級王座通算4回、アメリカス王座通算4回保持。2003年6月2日、死去。享年85。自伝本『リッスン・ユー・ペンシル・ネック・ギークス』が出版された直後だった
※文中敬称略
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文/斎藤文彦
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