ダニー・ホッジ オクラホマの天才アスリート――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第23話>
レスリングとボクシングのどちらが好きかといわれれば、もちろんファースト・ラブ=初恋はレスリングで、ボクシングはやっぱり寄り道でしかなかった。
プロボクサーとして観客のまえに立ったことで、ホッジはレスリングというスポーツへの情熱を再確認することになった。
マクガークがオーナー・プロモーターをつとめるトライステート・レスリングはNWA加盟団体のひとつで、活動テリトリーはオクラホマ、ルイジアナ、ミシシッピ、アーカンソーの4州とテキサスの一部。
マクガークが所属選手のビル・ワットBill Wattsに興行権を売却して引退し、新会社MSWA(ミッドサウス・レスリング・アソシエーション=1979年8月発足)が誕生するまで、約30年間にわたり“マクガーク・ランド”として親しまれた南部の人気マーケットだった。
マクガークは5歳のときに小児白血病で右目の眼球の摘出手術を受け、身体的には大きなハンディキャップを抱えてプロレスラーとなったが、現役時代は世界ジュニアヘビー級王座を約10年間(1939年6月19日―1950年2月)にわたり保持した大レスラーだった。
チャンピオンベルトを保持したまま交通事故で左目も失明し、現役を退いたあとはプロモーターに転向。マクガークの功績を称え、NWA本部は世界ジュニアヘビー級王座を“マクガーク管理”のタイトルとした。
身長5フィート10インチ(約178センチ)、体重220ポンド(約99キロ)でアマチュア・レスリング出身のホッジは、マクガークが考えるところの理想的なプロレスラーだった。
ボクシングのトランクスをプロレスのショートタイツにはき替えたホッジは、デビューから9カ月でアンジェロ・サボルディAngelo Savoldiを下してNWA世界ジュニアヘビー級王者となった(1960年7月22日=オクラホマ州オクラホマシティー、ストックヤード・コロシアム)。
ホッジは“5ストライクをとれるピッチャー”と形容された。怪力、スタミナ、コンディショニング、そしてレスラーとしてのテクニックとボクサーとしてのスキル。
得意技はコブラツイストと後方回転エビ固めとオクラホマ・ロールと呼ばれる変形スモール・パッケージ・ホールド。
デビュー当時は“ホッジ・ヘッドロック”と命名された怪力ヘッドロックをフィニッシュ技として愛用していた。18年間の現役生活をずっとベビーフェースとして過ごした典型的な正統派だった。
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