ダニー・ホッジ オクラホマの天才アスリート――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第23話>
欠点がないところがただひとつの欠点といっていいレスラーだったが、プロレスに対する姿勢はひじょうに柔軟で、女子プロレスラーとタッグを組んでの男女ミックスト・マッチ、ミゼット・レスラーとのミックスト・マッチ、レスリング・ベア(熊)との“決闘”など、ショー的要素の高い試合も数多くこなした。
目の不自由なマクガークは、耳と皮膚感覚でライブの観客のリアクションをたしかめるプロモーターだった。
ホッジは、NWA世界ジュニアヘビー級王者としてトライステートだけでなくAWA、NWAセントラルステーツ地区(ミズーリ州とカンザス州)、NWAフロリダ地区の各セリアをサーキットした。
1960年代から1970年代前半までのジュニアヘビー級は軽量級部門というイメージではなく、NWA世界ジュニアヘビー級王座もNWA世界ヘビー級王座とはあくまでも“別格”のタイトルという位置づけになっていた。
ホッジもタイトルマッチではないシチュエーションではヘビー級のなかで試合をしていたし、体格的な違和感はほとんどなかった。
ホッジ対ルー・テーズの“夢の対決”は日本で実現した。国際プロレスのテレビ放映(TBS)がスタートしたシリーズで、ホッジはテーズを下してTWWA世界ヘビー級王座を獲得(1968年=昭和43年1月24日、東京・台東体育館)。しかし、この王座はその後、なんの発表もないまま“自然消滅”してしまった。
1960年から1976年までの17年間で、ホッジはNWAジュニア王座を通算7回獲得し、ボスのマクガークがそうであったように44歳でチャンピオンのままリングを下りた。
それは7度めの王座獲得からわずか2週間後のことだった。
オクラホマシティーでの試合後、自宅へ帰る途中だったホッジが運転する自動車がハイウェイ沿いの橋に激突し、車は横転してスピンしながら地面を滑り、土手のコンクリートの壁をひきずるようにしてまっ逆さまに川に落ちていった。午前3時の居眠り運転だった。
ホッジはこのときの様子をはっきりと記憶していて、ハンドルを握りながら車のルーフに何度も頭をぶつけ、首が骨折し、奥歯が全部折れたのがわかったという。
川の底に落下したあと、車のなかに水が流れ込んできた。ホッジは破損したフロントガラスのわずかなスペースから車外に脱出し、首を手で支えながら必死に川の岸まで泳いだ。
それから10数分後、すぐそばを走行中だった大型トラックに発見され、病院に運ばれた。師匠マクガークとホッジがふたりとも交通事故で引退という不思議なシナリオは、オクラホマのミステリーとして語りつがれることになった。
ケガによる突然の引退がハッピーエンドであったかどうかはわからないが、首の骨折という大きなアクシデントは最悪の事態を回避し、ホッジはその後、リハビリをつづけて自分の足で歩行できるまでに回復した。
みずからを「プロレスファンです」と認めるホッジは、現在でも毎週欠かさずWWEの“ロウ”と“スマックダウン”をテレビで観ているという。お気に入りのレスラーは、やっぱりカート・アングルらしい。
●PROFILE:ダニー・ホッジDanny Hodge
1932年5月13日、オクラホマ州ペリー出身。本名ダン・アレン・ホッジ。オリンピック2回出場(1952年=ヘルキンキ大会、1956年=メルボルン大会)。NWA世界ジュニアヘビー級王座通算7回保持。1976年3月、交通事故で引退。
※文中敬称略
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文/斎藤文彦
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