更新日:2022年12月10日 18:53
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フリッツ・フォン・エリック “鉄の爪”アイアン・クローの悲劇――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第21話>

フリッツ・フォン・エリック “鉄の爪”アイアン・クローの悲劇<第21話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第21話は「フリッツ・フォン・エリック “鉄の爪”アイアン・クローの悲劇」の巻(イラストレーション=梶山Kazzy義博)

 “鉄の爪”アイアン・クローをトレードマークに一世を風びした超大物ヒール。テキサス生まれのれっきとしたアメリカ人だが、デビューから引退までフリッツ・フォン・エリックというドイツ名を名乗った。  エリックがデビューした1950年代は、第二次世界大戦でアメリカの敵国だったジャーマン(ドイツ系レスラー)とジャパニーズ(日系人レスラー)は自動的に悪役だった。  こういった政治的ステレオタイプは、冷戦構造時代のソ連系ヒール(イワン・コロフ、ニコライ・ボルコフ)、ホメイニ師政権時代のイラン系ヒール(アイアン・シーク)までつづいていく。  6フィート4インチ(約194センチ)、275ポンド(約125キロ)の巨体、馬のように太い大腿部、限りなくスキンヘッドに近いクルー・カット。ベルリンからやって来た“ナチスの亡霊”というキャラクターは、単なるヒールというよりは怪奇派といったたたずまいだった。  バーン・ガニアを下しAWA世界ヘビー級王座を獲得したことがあったが(1963年7月27日=ミネアポリス)、基本的には“遠征嫌い”として知られていた。  1959年、6歳の長男ジャッキー・ジュニアが雨の日に家の近所で遊んでいて誤って高圧電流に触れて感電死した。エリックは、ニューヨークをツアー中だった。この不慮の事故はエリック・ファミリーにふりかかる悲劇の歴史のほんのプロローグに過ぎなかった。  1965年、テキサス州ダラスに腰を落ち着けたエリックは、現役選手とプロモーターの二足のわらじをはくようになる。  地元テキサスのファンは、ドイツ名を名乗るエリックがじつはテキサス生まれのアメリカ人だという事実をちゃんと知っていて、この“公然の秘密”を一種のファンタジーとして楽しんだ。  初来日は1967年(昭和41年=日本プロレス)。大阪と東京でジャイアント馬場が保持するインターナショナル王座に挑戦した。東京でのタイトルマッチは、日本武道館でのプロレスの初興行だった(12月3日)。  エリックは現役時代に通算6回来日し、日本プロレスと全日本プロレスのリングに上がったが、いずれもシリーズ中に1週間のみ滞在の特別参加だった。
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テキサスに“エリック王国”が誕生
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