レイ・スティーブンス&パット・パターソン “金髪の爆撃機”はバンプの名人――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第28話>
ふたりの因縁のシングルマッチは衝撃の仲間割れシーンから約1年間の熟成期間をへて、ファンをじらしにじらしたうえでやっと実現し、テキサス・デスマッチとしておこなわれた試合はスティーブンスが勝利を収めた(1970年7月11日=カウ・パレス)。
しかし、完全決着戦のあとでサンフランシスコから消えたのはスティーブンスのほうで、ヒールのパターソンはかつてのスティーブンスとまったく同じポジションでシングルのメインイベンターの座につき、1977年までロングランのUS王者として活躍することになる(同王座通算6回獲得)。
あとになってみれば、それはひじょうにち密に計算された主役交代のシナリオだった。
サンフランシスコからフェードアウトしたスティーブンスは1970年代はAWAに定着し、ニック・ボックウィンクルとの新コンビで活躍することになる。
ニック&スティーブンスはブルーザー&クラッシャー・リソワスキー、バーン・ガニア&ビル・ロビンソン、クラッシャー&ロビンソンといったタッグチームとの定番カードをくり返しながら、AWA世界タッグ王座を通算3回獲得。
ニックがガニアを下してAWA世界ヘビー級王者になると、こんどはパターソンがAWAにやって来てスティーブンスとの名コンビを復活させた。
絶対的な主役だったスティーブンスとパターソンがいなくなったあと、サンフランシスコのビッグ・タイム・レスリングは1979年にあっさりと“閉店”をアナウンスした。それほどこのふたりの観客動員力は大きかった。
44歳のスティーブンスと39歳のパターソンは約9カ月間、AWA世界タッグ王者をキープし(1978年9月23日~1979年6月6日)、それからまたシングルプレーヤーとしてそれぞれの道を歩むことになる。
スティーブンスはNWAミッドアトランティック地区に転戦し、パターソンはアメリカ大陸を横断してWWEと契約した。
パターソンは新日本プロレスの常連外国人でもあった。ジョニー・パワーズとのコンビでNWA北米タッグ王座を日本のリングに持ち込み(1973年=昭和48年12月7日、大阪)、アントニオ猪木のNWFヘビー級王座にも挑戦(1977年=昭和52年12月1日、大阪)。坂口征二に敗れWWF北米ヘビー級王座を日本のリングに置いていった(1979年=昭和54年11月8日=小樽)
スティーブンスもパターソンもバンプをとるレスラーだから、ビギナー層の観客の目にはあまり強くは映らないタイプのレスラー、プロモーターとレスラー仲間からは“名人”“達人”としてリスペクトされたレスラーだった。
リング上の対角線を走りぬけてターンバックルのところでくるっと体を回転させて場外に落ちるバンプ。よろよろと歩きながらドサッと顔からキャンバスに突っ込むバンプ。トップロープに上がったところを下からデッドリー・ドライブで投げられてしまうバンプ。
これらはすべてスティーブンスのオリジナルの“やられ芸”で、1980年代のリック・フレアーの十八番の数かずは、じつは若手時代にすぐそばで目撃したスティーブンスの動きを完全コピーしたものだった。
●PROFILE:レイ・スティーブンス&パット・パターソンRay Stevens&Pat Patterson
スティーブンスは1935年9月5日、ウエストバージニア州ポイントプレゼント出身。本名カール・レイモンド・スティーブンス。USヘビー級王座通算9回保持。1996年5月3日、死去。享年60。パターソンは1940年1月19日、カナダ・モントリオール出身。本名ピエール・クレモント。USヘビー級王座通算6回保持。1983年、引退。WWE役員、テレビ番組プロデューサーとして活躍。
※文中敬称略
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文/斎藤文彦
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