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ゴリラ・モンスーン ほんとうはインテリだったモンスター ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第25話>

ゴリラ・モンスーン ほんとうはインテリだったモンスター<第25話>↓

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第25話は「ゴリラ・モンスーン ほんとうはインテリだったモンスター」の巻(イラストレーション=梶山Kazzy義博)

 WWE史の生き証人といっていいレスラーであり、1980年代からのビンス・マクマホン体制を支えた優秀なプロデューサーのひとりだった。

 生まれも育ちもニューヨークのいわゆるニューヨーカーで、トーマス・ジェファーソン・ハイスクール時代はフットボール、レスリング、陸上(砲丸投げと円盤投げ)で活躍。

 アイザッカ大を首席の成績(専攻は体育教育とフィジオセラピー=理学療法)で卒業後、地元ロッチェスターの公立高校の教員となったが、6フィート5インチ(約196センチ)、300ポンド(約137キロ)の体格に目をつけたプロモーターのイグナシオ・ペドロ・マルチネスYgnacio Pedro Martinezにスカウトされ、1959年にプロレスラーとしてデビューした。

 デビュー当時はジノ・マレラのリングネームでローカル密着型のイタリア系ベビーフェースとしてリングに上がっていたが、1963年8月、ビンス・マクマホン・シニアにゴリラ・モンスーンというリングネームをもらい“満州出身”の怪物ヒールに変身した。

 得意技はエアプレン・スピン、ジャイアント・スウィング、マンチュリアン・スタイルのバックハンド・チョップ。超巨漢だったがアマチュア・レスリングの流れるような動きも試合に取り入れていた。

 モンスーン=台風というリングネームは、1963年(昭和38年)4月にモンスーンがジノ・マレラとして日本プロレスの『第5回ワールド・リーグ戦』に初来日したときに日本のマスコミが命名した“人間台風Human Typhoon”というニックネームがヒントになっていたとされる。

 モンスーンは、デビュー戦でいきなりブルーノ・サンマルチノのWWE世界ヘビー級王座に挑戦(1963年10月3日=ニュージャージー州ジャージーシティー、ルーズベルト・スタジアム)。

 当初、この大会ではサンマルチノ対バディ・ロジャースの“運命のリターン・マッチ”がおこなわれる予定だったが、ロジャースが心臓疾患を理由にこの試合をキャンセルしたため、マクマホン・シニアはロジャースの代打として新キャラクターのモンスーンをメインイベントに起用した。

 サンマルチノとモンスーンのタイトルマッチ・シリーズは全3戦おこなわれ、マディソン・スクウェア・ガーデンを2回、ソールドアウトにし(同年10月21日と11月18日)、それから4年後のリバイバルも3カ月連続でガーデンを超満員にした(1967年2月27日、3月27日、5月15日)。

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サンマルチノとの“友情物語”でベビーフェースに転向

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