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ボリス・マレンコ 名門“マレンコ道場”の先生――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第26話>

ボリス・マレンコ 名門“マレンコ道場”の先生<第26話>↓

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第26話は「ボリス・マレンコ 名門“マレンコ道場”の先生」の巻(イラストレーション=梶山Kazzy義博)

 第二次世界大戦後の1950年代はドイツ人の“ナチスの亡霊”ヒール、“冷戦時代”はソ連人ヒールとして一世を風びし、第一線を退いたあとは名門“マレンコ道場”で数多くのレスラーを育てた名伯楽である。

 17歳でデビューし、1980年に引退するまでアメリカじゅうのほとんどすべてのテリトリー、オーストラリア、日本をサーキットしたジャーニー・マンだった。

 ルーキー時代は本名のラリー・サイモン、ラリー・ドゥギャンをリングネームとして使っていたが、ネブラスカ(ジョー・ドゥーゼックJoe Dusek派)、カンザス(ガスト・キャラス派)をサーキット中にドイツ名のオットー・フォン・クラップOtto Von Kruppに改名。

 1960年代の米ソ冷戦構造の時代にボリス・マレンコBoris Malenkoなるロシア名を名乗るようになり、このリングネームを生涯使いつづけた。マレンコ名にはプロフェッサー・マレンコ、ザ・グレート・マレンコといった別バージョンもあった。

 “チェーン・マッチ”の発案者として知られ、典型的ヒールのプレゼンテーションとして、火のついた葉巻を相手の目にこすりつける(ようにみせる)反則技、大技を食らったあとで入れ歯を空中高く吐き出す“やられ芸”、場外乱闘のさいに右目だけを閉じて口のなかでなにかをつぶやきながら観客席のなかをぐるぐる歩きまわるトランス状態モード、口からの大流血(内臓破裂のイメージ)など、オリジナルの定番シーンの数かずを発明した。

 マレンコの30代から40代、1960年代から1970年代にかけてのホームリングはフロリダとノースカロライナの2地区だった。

 宿命のライバルはエディ・グラハムEddie Grahamで、ふたりの緊張関係はリングの上だけでなくバックステージでの政治的対立にまで発展。

 グラハムが先代プロモーターのカウボーイ・ラットレールCowboy Luttrellからフロリダのプロモート権を買いとると、グラハム派閥はマレンコを追放した。

 マレンコはフロリダ州タンパに新団体グローバル・レスリングを設立するが、NWA本部は全米各地からトップ・タレントをNWA加盟団体CWF(チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)に送り込み、組織力にものをいわせてマレンコ派インディー団体をつぶしにかかった。

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マレンコは新人レスラーの発掘・育成へと傾倒

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