リッキー・スティムボート “心のライバル”はフレアー――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第61話>
若手時代のスティムボートのタッグパートナーは、ジェイ・ヤングブラッド(故人)。ライバルはジミー・スヌーカ&レイ・スティーブンスのヒール・コンビで、NWA世界タッグ王座をめぐる闘いが定番カードだった。スティムボートとスヌーカも、バックハンド・チョップを激しく打ち合った。
フレアーがNWA世界ヘビー級王者としてスーパースターの道を歩みはじめたころ、スティムボートはWWEのリングを選択した。
WWEでのリングネームにはリッキーとスティムボートのあいだに“ザ・ドラゴン”というキャラクター・ネームが加えられた。ブルース・リーのイメージだった。
それまでの赤のショートタイツと純白のリングシューズの定番のコスチュームが、WWEのリングではカンフーをイメージさせる龍の刺しゅうが入った黒、赤、白、グリーン、ゴールドなどのロングタイツに変わった。
“ドラゴン”に変身したスティムボートは、“レッスルマニア3”でランディ・サベージを相手にプロレス史に残る名勝負を演じた(1987年3月29日=ミシガン州ポンティアック、シルバードーム)。
スティムボートとフレアーが運命の再会を果たすのは、それから2年後。WCW・NWAに復帰したスティムボートは、フレアーを倒してNWA世界王座を手にした(1989年2月20日=イリノイ州シカゴ)。
NWAクロケット・プロはこの前年、1988年11月に“テレビ王”テッド・ターナーのターナー・グループに買収され、ターナー傘下のグループ企業として団体名もWCW(ワールド・チャンピオンシップ・レスリング)に変わっていた。
スティムボートはその後、2大メジャー団体WWEとWCWを何度か往復するが、WCW所属だった1994年9月に腰の負傷を理由に引退を表明した。
WCWでの現役選手としての最後の対戦相手は、ストーンコールドに変身する2年まえの“スタニング”スティーブ・オースチンだった。
●PROFILE:リッキー・スティムボートRicky Steamboat
1953年2月28日、フロリダ州タンパ出身。本名リチャード・ブラッド。AWAバーン・ガニア道場でプロレスを学び、1976年、デビュー。トレードマーク技はサイクロン・ホイップと呼ばれたアームドラッグ、カンフー・チョップ。トップロープからのフライング・クロスボディー。NWA・WCW世界ヘビー級王座、インターコンチネンタル王座、WCW・US王座(4回)、WCW・TV王座(2回)、NWA・WCW世界タッグ王座(8回)など数多くのタイトルを獲得した。現在、WWEで“マンデーナイト・ロウ”“スマックダウン・ライブ”プロデューサー。
※文中敬称略
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文/斎藤文彦
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