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リッキー・スティムボート “心のライバル”はフレアー――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第61話>

リッキー・スティムボート “心のライバル”はフレアー<第61話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第61話は「リッキー・スティムボート “心のライバル”はフレアー」の巻(イラストレーション=梶山Kazzy義博)

 1980年代を代表するスーパースターで、リック・フレアーの宿命のライバルだった。  “公式プロフィール”ではハワイ州ホノルル出身となっているが、じっさいはフロリダ州タンパ出身。父親はアメリカ人で、母親は日系アメリカ人である。  ハイスクール時代、アマチュア・レスリングのフロリダ州選手権で2位(154ポンド級=1971年)の成績をおさめ、大学中退後、ミネアポリスの“バーン・ガニア道場”に入門。  ガニア、カズロー・バジリ(のちのアイアン・シーク)のコーチを受け、1976年2月にAWAでデビューした。  デビュー当時は本名のディック・ブラッドのままリングに上がっていたが、1960年代のスーパースターでハワイ出身のサミー・スティムボートSammy Steamboat(本名サム・モクハイ)と風貌がよく似ていることから、ガニアがサミー・スティムボート・ジュニアというキャラクターを考案。  スティムボート自身がファーストネームをリッキーに変え、ジュニアを削除して、リッキー・スティムボートというリングネームが生まれた。  フロリダ育ちのスティムボートは雪国ミネソタでの生活にどうしてもなじめず、その後、いちどもAWAには戻らなかった。  スティムボートがメインイベンターとしての階段をのぼりはじめるのは、NWAミッドアトランティック地区(NWAジム・クロケット・プロモーション=ノースカロライナ州シャーロット)に合流してからのことだった。  ここでスティムボートは生涯のライバルとなるフレアーとめぐり逢った。スティムボートは24歳のルーキーで、フレアーは28歳の売り出し中の若手ヒールだった。“ガニア道場”卒業生としてはフレアーが3年先輩にあたる。  スティムボートとフレアーがまったく同じモーションのワフー・マクダニエル式のバックハンド・チョップを共通の得意技にしているのは、ふたりが1970年代後半から1980年代前半にかけてこの技でおたがいの胸板をいやというほど打ち合ったからだ。
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若手時代のスティムボートのタッグパートナーは…
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