開通30年の瀬戸大橋。“夢の懸け橋”の影を、与島PAにのこる廃墟に見た
現在の産廃置き場にあったのは、塩田の跡地に建設された「瀬戸大橋フィッシャーマンズワーフ」なるレジャー施設だった。港からは与島を周遊する観光船「咸臨丸」も就航。瀬戸大橋開通当初は年間500万人以上の利用者があり、隣接地にはレーシングカート場も建設され、大いに賑わったという!
1962年東京生まれ。慶大法卒。編集者を経てフリーライター。『そのフェラーリください!!』をはじめとするお笑いフェラーリ文学のほか、『首都高速の謎』『高速道路の謎』などの著作で道路交通ジャーナリストとしても活動中
しかし、瀬戸大橋の高すぎた通行料金も含め、「一度行けばもう結構」な施設だったのだろう。その後利用は急減し、2003年に身売り。レーシングカート場は足湯施設「オアシスパーク瀬戸大橋」に変わり、「ベゴニア海花園」も設けられたが、利用は超絶低迷し、わずか数年で閉園。フィッシャーマンズワーフも2011年に閉鎖され、すべてが廃墟となっていたのである。そんな栄枯盛衰があったなんて、30年間まったく知りませんでした……。
施設があった周辺は、与島南側の主要集落からは離れていて、島民の暮らしぶりをうかがうことはできなかったが、レジャー施設では職員やパート90名が働いていたというから、その閉鎖が地域経済に大きな打撃を与えたことは間違いない。
与島の人口は115人(2010年)。ご他聞に漏れず超高齢化が進んでおり、小中学校も廃校になっている。与島PAは、ちょっと立ち寄って記念写真を撮るだけの場所となり、本州側からの観光客は、讃岐うどんを食べに足早に香川県へと移動するのであった。
取材・文・写真/清水草一1
2
この連載の前回記事
この記者は、他にもこんな記事を書いています
ハッシュタグ