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昔、ニューヨークで一文無しになったときのこと/鴻上尚史

慣れからくる油断。見事なチームプレー

 そういえば、最初、店内に入った時、じっと見つめられている視線を感じました。なんだろうと少し気になりましたが、無視しました。あの時、物色されて狙われたのです。  飛び出して、キョロキョロしていると、お店から出てきた人に何か話しかけられました。でも、何を言っているかわかりませんでした。英語力の問題です。  バッグの中には、この時も、全財産が入っていました。  今回と違うのは、全財産の半分がトラベラーズ・チェックという再発行が可能な「金券」だったことです。  懐かしいですね。トラベラーズ・チェック。もうすっかり使わなくなりました。  この時は、『週刊朝日』でエッセーを連載していたので、さっそく、この事件を書きました。 「お金と、今日送る予定だった原稿がバッグに入っていた」と書きましたが、原稿は嘘でした。混乱して、締め切りを一日過ぎてしまったので、とりあえず、「原稿は書いたけど盗まれた。だから、また書くから待ってね」ということにしたのです。  今回と同じで、何回かニューヨークに来て、「なんだか、慣れてきたなあ。俺ってニューヨーカーに見える?」なんて油断した時に、こういうことが起こるのです。  あの後、ずっと気を付けているつもりでした。でも、今回のロンドンは、見事すぎる手腕でした。プロの技でした。  前回のニューヨークでは、店内と道路側の二人のチームプレーに感動しました。アメリカ人だって、心をひとつにまとまれるんじゃん、と。  今回は、スリの技術に感動しました。手先の器用なのは、日本人だけじゃないんだ。イギリス人かどうかはわからないけれど、気配を完全に消して近づき、そして、チャックを開けて盗む手口の見事さに唸りました。風邪じゃなくても、見抜けなかったかもしれません。  そんなわけで、まだ風邪と時差ボケは完全には治っていません。とほほなイギリス旅行でした。はい。
ドン・キホーテ 笑う! (ドン・キホーテのピアス19)

『週刊SPA!』(扶桑社)好評連載コラムの待望の単行本化 第19弾!2018年1月2・9日合併号〜2020年5月26日号まで、全96本。
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この世界はあなたが思うよりはるかに広い

本連載をまとめた「ドン・キホーテのピアス」第17巻。鴻上による、この国のゆるやかな、でも確実な変化の記録

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