「あの人は、貧困をバネに頑張って成功した」の危険性
しかしながら、こうしたデータを目にしても尚「自己責任論」を唱える人の数は、ゼロにはならないでしょう。必ずと言って良いほど「
貧しい家庭に育っても、努力して華々しい経歴を誇る人はいる、やはり貧困は甘えだ」と主張する人が現れます。
「貧しい家庭出身で、華々しい経歴を誇る人」の具体例として頻出するのは、菅内閣官房長官やソフトバンク会長の孫正義さんなど、著名な起業家・実業家たちです。確かに、彼らは今の社会的地位を手に入れるまでに並々ならぬ努力をし、己を研鑽し続けてきたのだろうと思います。ですが、彼らのような存在を引き合いに出して、貧困層の人たちに「努力すればああなれる。お前はなんでやらないんだ」と言い切ってしまうのは、非常に暴論であり、危険な行為だと思います。
彼らはそもそも、異例とも言える躍進を果たした
「何万人に一人の存在」なのであり、努力をしたからと言って、誰しもが必ず「格差を乗り越えるほどの社会的成功」を納められるわけではありません。
本来、1万人に1人の逸材をロールモデルとして掲げるのであれば、残りの9999人にも目を向けて、失敗例や課題をピックアップする必要があるはずなのに、
努力をしても貧困から脱却できなかった誰かのエピソードが大きく注目されることは決してありません。一方で、貧困をバネに成功したエピソードはスポットライトを浴びやすく、自己啓発本になって、ベストセラーになるほど多くの人の目に留まります。
そうすると、社会では「努力さえすれば貧乏にはならない」という主張ばかりが大きくなり、貧困にあえいでいる当事者たちのリアルな声が届くことはないまま、「日本の貧困層は自己責任」とする論に結びつけられていく。昨今の日本を見ていると、本来、向き合わなくてはならないはずの問題から誰もが目をそらし続けた結果が、今のような風潮を作っているように思えます。
私自身も、子ども時代は決して裕福とは言えない家庭に育ちました。両親をはじめ、親戚たちの中では中学校、高校を卒業すればすぐに働いて家庭を助けるのが「普通」であり、
親族に大学を卒業した者は一人もいなかったのです。そういう環境が当たりまえでしたから、そもそも大学についての知識はまったくありませんでしたし、子どもの頃は将来の自分について、「とりあえず高校を出たらみんなと同じように働こう」くらいにしか考えていませんでした。
しかしいざ高校生になって、周りの友達が受験勉強を始め、自分だけが就職を考えている状況にさらされると、私は自分の将来に大きな不安を感じるようになりました。進学率が100%の高校だったこともあり、進学ではなく就職を考えていたのは、学年にたった一人、私だけだったのです。
悩んだ末に「大学に進学したい」と相談したとき、母に「大学なんか出て何になるの。あんたが働いて家計を助けてくれないと、うちはどうなるの」と泣かれ、「私はなんて身分不相応なことを考えてしまったんだろう」と激しい自責の念に駆られたことを覚えています。その後、母とは何度も話し合いを重ね、私は結局、
奨学金を上限額まで借りて大学に進学することに決めました。受験にかかるお金を最低限に抑えるために、入試は2回だけ、合格ラインに余裕を持って達している大学に絞って受けざるを得ません。
入学後はアルバイトを3つか4つ掛け持ちしていて、早朝のバイトが終わったあと学校で授業を受け、夕方また別のバイトへ行って終電で家に帰って、土日も休まず働く。そんな生活にいつも疲弊していましたが、「家庭に迷惑をかけずに勉強ができる」と思えば、あまり辛くはありませんでした。