<第38回>新宮が常総学院野球部主将として培った全体と自分以外の人間に対する観察眼

クラウンレコード・新宮崇志氏
アーティスト担当という立場を超えて踏み込み、陰で純烈を支えるマネジャー・新宮崇志はそもそもなぜ音楽業界に入ってきたのか。茨城県を代表する強豪校の常総学院でキャプテンを務め、甲子園も経験しているその経歴を聞けば、なおさら誰もが思うだろう。
『下妻物語』にも出てきた世界最大の大仏で有名な牛久市にて育った新宮は、小学5年で野球を始めた。中学で頭角を現し、何校かの高校からスカウトの声もかかるほどだった。
その中で明快に「甲子園へいくために」知将・木内幸男率いる常総を選ぶ。1984年夏、桑田真澄&清原和博を擁すPL学園を破り全国優勝するまでに取手二高を育てあげた同監督は直後に退任を表明、開校して2年の無名校へやってきた。
就任3年目となる1987年、春のセンバツへ初出場し、夏は準優勝。1994年には春も準優勝。中学1年だった新宮は、純白のユニフォームに身を包み“銀傘(ぎんさん)”の下でハツラツとプレーするナインをせん望のまなざしで見ていた。
“木内マジック”の異名をほしいままにする監督のもとで野球の技術を磨ける。言うまでもなく新宮の夢はプロ野球の選手になることだった。
新宮が入部した年は、1年生が20人いた。先輩も合わせると50人の中でレギュラーを争わなければならない。
「ただ、1年と3年が同じぐらいの実力だとしたら、1年を使うというのが木内監督のスタイルだったんです。年によってムラがあるのではなく、どの年も同じレベルの強さになるには、その年で終わる3年よりも将来がある1年を出すことで伸ばすという考えでした。
それならば、自分が頑張れば1年からレギュラーになって3年まで初夏合わせて計5回も甲子園にいけるチャンスがあるじゃないかと思って。じっさい、背番号4番をもらってベンチに入れたんですけど、1年の6月に現実を見てしまって……」
その日は、神奈川・桐蔭学園との練習試合だった。そこで、のちにオリックスと阪神で活躍する平野恵一のプレーを目の当たりにした瞬間「これはどんなに頑張っても同じようにはなれないな」と思わされた。
この日から、プロではなく甲子園出場が野球をやる上でのモチベーションに変わった。小回りが利く二塁手としてレギュラーの座を獲得し、2年春に夢を現実のものとする。
トーナメント2回戦から出場し山口・岩国に勝利。奇しくも純烈マネジャー・山本浩光の地元県の代表だった。3回戦は高知・明徳義塾と対戦。4対5という僅差でベスト8進出はならなかった。ちなみにこの年の優勝は、松坂大輔率いる神奈川・横浜。あの時代の高校野球を、新宮は実体験している。