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手塚治虫、石森章太郎…「トキワ荘」出身のレジェンドマンガ家列伝

赤塚不二夫:仲間によって連載のチャンスを掴んだ

 石森と同時期にトキワ荘へ入居していたのが、『おそ松くん』や『天才バカボン』などを生み出した“ギャグマンガの王様”赤塚不二夫だ。  赤塚は小学生の頃に手塚の『ロストワールド』と出会ったことでマンガ家になることを決意し、1956年に『嵐をこえて』でデビュー。その同年にトキワ荘で暮らすようになり、1961年までの約5年間を過ごした。
赤塚不二夫自叙伝 これでいいのだ

赤塚の自叙伝においても、トキワ荘時代の記憶に触れられている(画像は文藝春秋『赤塚不二夫自叙伝 これでいいのだ』より)

 石森が高校時代に創刊した同人誌『墨汁一滴』に赤塚が参加していたことから、2人はマンガ家デビュー以前から交流があった。トキワ荘への入居後も、仕事で忙しい石森の身の回りの世話を赤塚がするなど関係は続き、赤塚の少年誌連載デビューのきっかけも、石森の編集者への推薦があったからだという。石森と赤塚は、同じ屋根の下で暮らしたトキワ荘の住人たちのなかでも、とりわけ深い縁があるといえるだろう。

水野英子:手塚に認められたトキワ荘の紅一点

 トキワ荘の住人のなかで唯一の女性作家が、『星のたてごと』、『白いトロイカ』、『ファイヤー!』の作者である水野英子だ。現在では当たり前の題材となっている「恋愛」を少女マンガで初めて本格的に描いたマンガ家であり、歴史的な要素を入れるなどさまざまな挑戦によって少女マンガの可能性を拡げたことから“少女マンガの母”とも称されている。  水野は小学3年生の頃に手塚の『漫画大学』に衝撃を受け、中学生になると雑誌『漫画少年』に投稿を開始。佳作止まりで掲載されなかったものの、中学卒業のタイミングで手塚の目に留まり、雑誌『少女クラブ』の依頼を受けるようになった。
 上京してトキワ荘に住むようになったのが1958年3月の出来事で、入居していた期間は同年10月までのわずか7ヶ月間だったが、その後もトキワ荘に通っていたのだという。当時は『銀の花びら』の執筆をしながら、U・マイアのペンネームで石森、赤塚と合作していた。 ――ミュージアムの近くにはトキワ荘に所縁のあるマンガ家の作品が閲覧可能な『トキワ荘マンガステーション』が開設されているほか、当時のマンガ家たちも通っていたといわれている中華料理店も現存している。ミュージアムに足を運んだときはぜひ周辺も散策し、名だたるマンガ家たちが青春を謳歌した時代に思いを馳せてほしい。<文/佐久間翔大(A4studio)>
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