手塚治虫、石森章太郎…「トキワ荘」出身のレジェンドマンガ家列伝
2020年7月7日、東京都豊島区南長崎に『豊島区立トキワ荘マンガミュージアム』がオープンした。この施設は、日本マンガ界を代表する伝説のマンガ家たちが青春時代を過ごし、1982年12月に解体された木造アパート「トキワ荘」を忠実に再現したマンガミュージアム。当初は3月22日開館を予定していたが、新型コロナウイルス感染症の影響で延期となり、当面は電話・Webサイトからの事前入館予約制をとるという。入館料は通常無料で、休館日は月曜日だ。
今回は既にマンガファンからの人気が集まっている『豊島区立トキワ荘マンガミュージアム』の開館にちなみ、トキワ荘に住んでいたマンガ家たちを紹介していく。
マンガに特別詳しくなくても、『鉄腕アトム』、『ブラック・ジャック』、『リボンの騎士』、『ジャングル大帝』、『火の鳥』の名前を知っている、あるいは実際に読んだことがあるという方は多いだろう。これらの作品を描いたのが、手塚治虫だ。
手塚は「ストーリーマンガ」と呼ばれる今日一般的にマンガと聞いて連想されるようなジャンルや、映画を意識した表現手法を確立させた。日本マンガ文化の基礎を築いた偉大な先駆者であることから、“マンガの神様”と讃えられている。
そんな手塚がトキワ荘に住んでいたのは、1953年~1954年の約2年間。当時は20代半ばの若さながら数多くの連載作品を抱えており、ほかのマンガ家たちの手を借りながらマンガを描いていたという。このときの経験が、専属のアシスタントを雇って仕事をしてもらうアシスタント制度の走りとなったともいわれている。
手塚が住んでいた14号室に引っ越してきたのが、『ドラえもん』、『パーマン』を手がけた藤子・F・不二雄と、『忍者ハットリくん』、『笑ゥせぇるすまん』で有名な藤子不二雄(A)のコンビ、藤子不二雄である。
2人は手塚の『新宝島』を読んだことでマンガ家になることを志すようになり、1951年にマンガの投稿を始めて、1954年に上京。トキワ荘では1954年~1961年の7年間生活していた。
トキワ荘に住んでいた時期のある年の瀬に、多忙により疲弊したふたりは抱えていた仕事全てを放棄し、漫画界から干されてしまいそうになる。だが、トキワ荘で暮らす同年代のマンガ家の活躍を目の当たりにしていたおかげで、闘志を失うことなく、人気漫画家へと返り咲くことができたのだそうだ。
手塚の退居後も、トキワ荘には手塚の背中を追うマンガ家やマンガ家志望の若者たちが集った。『サイボーグ009』や『仮面ライダー』で有名な石森章太郎(のちに石ノ森章太郎と改名)もそのひとりだ。
石森は多作かつ速筆であることで知られ、生涯のうち770もの作品を描いたことでギネス世界記録にも認定された“マンガの帝王”だ。手がけた作品のジャンルも、シリアスなストーリーマンガからギャグマンガ、さらには『マンガ日本経済入門』のような学習マンガに至るまで多岐にわたる。
トキワ荘へは高校を卒業して間もない1956年5月に移り住み、1961年末までの約5年間暮らしていた。1958年春まで石森は姉と同居しており、その美貌からトキワ荘のマドンナとして住人たちから慕われていたようだ。
手塚治虫:トキワ荘伝説の大いなる原点
藤子不二雄:ライバルに支えられ苦境を乗り越えた
石森章太郎:最大の理解者である姉と同居していた
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