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<純烈物語>「七転八起だからここに集まる」メンバーが頼りにする焼き肉店は焼失を乗り越えた<第63回>

<第63回>もらい火により店を焼失……からの八起き。相模大野の風情とともに41年

八起おかみさん

店のなかはさながら「純烈博物館」。たくさんの資料や写真が積まれている

「焼肉八起」の主人であり、時子おかみの夫・唐澤章さんは、4人兄弟の家に生まれた。父は材木業を営んでいたが戦後の混乱期で続けるのは難しく、一旗揚げようと夫婦で神奈川の淵野辺に引っ越した。  その間、兄弟は親戚筋に預けられたが東京へ移るタイミングで両親が呼び戻す。出逢いこそ地元だったが、その時点で旦那が住んでいる方へ出て生活するのが自然だと時子は思った。 「東京へ出る前に田舎で結婚式を挙げようと思っていたら、1週間前に身内の不幸があってできなくなって、簡単に三々九度だけやったの。そのあと、東京でお店を開いてから式を挙げたんだけど、それから1年ぐらい経って田舎でもやった。だから同じ人と3回も結婚式をやったのね。違う人と3回じゃないわよ、アッハッハッ!」  結婚した時、章さんの兄夫婦が都内で焼き肉店を営んでいたのだが、他の街に新しい店を出すことになったため時子たちが引き継いだ。それじゃあ明日から頑張るぞと新たなる一歩を踏み出そうとしたその夜、もらい火による大火事に見舞われた。  目の前で燃え盛る店……一夜にして、唐澤夫妻はすべてを失うという波瀾万丈の船出だった。仕方がなく、章さんは兄の店で働かせてもらった。  本来ならば人手は間に合っているのに、その分の給料は払わなければならない。兄夫婦も大変だったが、アパートで待つ時子も旦那の稼ぎである月10万円の中から2万円を貯金し、なんとか生活を工面した。 「もともと旦那は焼き肉店をやりたいと思っていて、広島に修業へいっていたぐらいだったんだけど、それだけに宝物をなくしてしまってショックで立ち上がれなかった。だけど、あたしの方は結婚という重大決心をしてこっちに出てきたわけじゃない。  もう親元には帰れない、何があろうと二人で頑張ってやっていくんだという精神を持っていた。女は強いわよ。それで、火事から半年ぐらい経った時だったかな、大喧嘩になって『このままじゃダメでしょ! 小さくてもいいから、自分たちのお店を持とうよ』って言ったの」

純烈にも影響を及ぼした八起という店名

 1年かけて20万円貯まったものの、それでは店など持てない。そんな中、親戚が「章なら大丈夫だ」と、200万円を借りる保証人になってくれた。  章さんは、身内からも真面目な男と信頼されていた。時子は「ゼロだと何もできないから、イチはあった方がいい」という旦那の言葉を思い起こした。  店が焼けてゼロになったかと思いきや、形としては見えずとも貴重なものがイチとしてあったのだ。旦那は仕事にいっているため時子が場所を探し回った結果、川崎にいい物件を見つけた。  大火によって一度は店を失いながら、それでも起き上がる。「八起」という店名そのもののドラマではないか。 「純烈のメンバーが6人だった頃、事務所を移籍するにあたり改めて方向性や『ヤバいと思ったら退いていいから』ということを話すために招集をかけたのが、八起だったんです。脚を骨折した時も励まされたし、その時もこれから純烈には七転び八起きが訪れるだろう、だから八起というここの名前にも負けてたまるか!という思いもあって、あの場を選んだのだと思います」(酒井一圭)  純烈にも影響を及ぼした八起という店名。売れなかった頃、何度も諦めかけるたびにその二文字を思い起こし、酒井は踏ん張ることができた。
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『この人だったら大丈夫だ』がつながった
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焼肉八起(やきにくやおき)
神奈川県相模原市南区相模大野6-19-25
http://www.yakiniku-yaoki.com/
AM11:00~PM1:00
PM3:00~PM10:30
L.O.)PM10:00 ※日曜日はPM.9:30
休=月・火曜
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