更新日:2021年02月04日 12:02
スポーツ

腕が折れても投げ続けた6試合773球…“甲子園のルールを変えた男”の現在地

大野倫

悲運の……という枕詞と共に語られることも多い大野倫氏

高野連を動かした1人の男の悲運

 高校野球界では、投手の障害防止と未来への成長育成のために一昨年から「球数制限」が議論され続けている。昔なら当たり前だったこと、昔なら考えられなかったことも、スポーツの近代化、そして選手ファーストの観点から様々なルール変更がなされるのは当然の流れだろう。  今から27年前も大改革がなされた。1994年春の甲子園から、高校野球連盟は甲子園大会前において登板可能の投手全員に対して肩および肘関節に関する検診が義務付けられ、医師の許可なしで出場することができないと規定した。当時のマスコミは高野連側が投手として優れた資質を持った選手を大会でオーバーユースさせないために出場禁止規約を設定したと英断を讃えるかのように報道した。だが実際の状況は異なっていた。  80年前後から大会の過密スケジュールによる選手の酷使が度々問題視されていたのだが、高野連は見て見ぬふりを貫いていたのである。そして、91年に湧き起こった世論によりやっと重い腰を上げ、それから3年後に規約を作ったのである。世論を動かし、高野連を動かしたのは、あるひとりの男の存在があったからだ。  彼は甲子園で右腕を犠牲にし、輝かしい未来を寸断された。そのことがきっかけで、甲子園大会の規制が新たに設けられたのだ。その男の名前は大野倫。後に九州共立大学を経て、ドラフト5位で巨人入りをした。だが、彼は投手としてではなく、野手として入団をしたのである。

野手としても大学野球で開花しドラフト指名を受ける

「高校のときはあまりにケガが多くてピッチャーとして見切りをつけていました。甲子園でああいう形になって潰れてしまったし……。幸い僕はバッティングに自信があったからいい方向転換になってラッキーでしたよ」  元巨人の大野倫は当時を振り返って訥々と語ってくれた。大野といえば、90、91年と沖縄水産2年連続準優勝メンバーであり、91年にはエースとして一回戦から決勝までの6試合、たったひとりで773球を投げ抜く。腕が折れんばかりの力投を見せた。だが実際は腕が折れんばかりではなく、腕が折れながら投げていたのだ。右肘剥離骨折……大会後手術をし、軟骨を除去。これで大野の投手生命は完全に終わってしまった。 「大野倫」という名前が出る度に高校野球フリークはまっさきにこう思う。  なぜそうまでして投げたのか? 痛みがあったのにどうして最後まで投げさせたのか? なぜ? どうして? 疑問が尽きない。それほど91年大会は、瀕死の状態であった大野倫の力投シーンしかクローズアップされてこない。ひとりの前途ある若者の未来を閉ざしてしまう甲子園大会とは一体どんな意味があるのか……。当時、社会問題にまで発展し、大会自体の意義さえ問われたこともあった。やがて時が経つにつれ“甲子園に潰された悲劇の男”が、いつしか“甲子園のルールを変えた男”とも呼ばれるようにもなった。
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野手として日本代表にも
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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