スポーツ

腕が折れても投げ続けた6試合773球…“甲子園のルールを変えた男”の現在地

二軍では四番を任されるが……

「オープン戦まで同期の清水(隆行)と一緒に一軍だったんですけど、開幕メンバーを決める際に僕が下に落とされ、清水が新人でそのままレギュラーを取りましたから、さすがに悔しかったです。結局ルーキーイヤーは一軍に一度も上がれず、2年目に一軍に行ったときに気づきました。やっぱりルーキー時に一軍に行くと行かないとでは大きな違いがあるということ。  一年間ずっと二軍にいると、二軍慣れしてしまう恐ろしさがあります。最初に一度でも一軍に行って華やかさや厳しさを身体に叩き込ましておけば、下に落とされても這い上がろう這い上がろうとモチベーションが保てるんです。最初から二軍に落とされたままずっといると二軍の環境が当たり前になるし、一軍が雲の上というか別世界になってしまってイメージが湧かないんです」  “二軍慣れ”という言葉は、プロ野球界の取材をしているとよく耳にする。大野の言い分を聞くと、まさに人間は環境によっていつでも左右される生き物だということを痛感する。  二軍では四番を張り、常時試合出場してそれなりに結果を残す。しかし上(一軍)にあがると出番は代打しかないため試合勘も鈍り、常時出場できないストレスも溜まり、コンディションのコントロールが上手くできず心身ともに苦しんだという。とはいえ、巨人軍という恵まれた環境、待遇面の中で一心不乱に野球に打ち込んでいた大野は、首脳陣からも期待される選手のひとりだった。

プロ初ホームランの年にトレードを通告

「ある年の秋季キャンプで、気分転換の一環として外野と内野が入れ替わってノックを受けたんです。僕がショートに入ってノックを受けていると、長嶋監督が後ろに立って見ているんです。すると、『倫ちゃん、ショートいいね~』って長嶋節で呟くんです。翌朝のスポーツ新聞に来季の構想でショート川相さんの下にカッコして僕の名が書いてあるんです。コーチの土井(正三 故人)さんに呼ばれて『真に受けるんじゃないぞ』と言われましたけど(笑)」  長嶋監督からは「倫ちゃん」と呼ばれて可愛がられ、一次政権時代の原監督からは多くのチャンスをもらった。5年目の2000年には、プロ初ホームランも打ち、出場できなかったが日本シリーズ出場登録もされた。しかし、このオフ、福岡ダイエーホークス(現ソフトバンク)にトレードされるのだった。 <取材・文/松永多佳倫>
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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嫌われた“球界の最長老”が遺したかったものとは――。


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昭和のプロ野球界を彩った男たちの“信念”と“生き様”を追った渾身の1冊

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