更新日:2021年02月04日 12:02
スポーツ

腕が折れても投げ続けた6試合773球…“甲子園のルールを変えた男”の現在地

大野倫の本質は投手

 元祖“怪物”の江川卓(元巨人)が言うには、エンゼルスの二刀流大谷翔平の本質はバッターであって、かつピッチャーもできる選手だと。当然その逆もある。中学時代から軟式で140キロ超のボールを投げ、高校時代の恩師で名将の栽弘義(元沖縄水産監督 故人)が「大野は根っからのピッチャーなんだ。後に日本代表するピッチャーになれる才能がある」と周りに言っていたことからもわかるように、大野の本質はピッチャーであったのは間違いない。  大野は沖縄水産を卒業後、九州共立大学に入学。19歳で当時最年少の日本代表に選出されるなどバッターでメキメキと頭角を現し、95年のドラフトで巨人から5位指名を受ける。彼が凄いのは、高校で投手生命を断たれたにもかかわらず大学ではバッターで再起し、見事ドラフト指名を受けてプロ野球界に入ったことだ。高校時代からバッティングの才能はあったにせよ、どれほどの努力を要したかは筆舌に尽くしがたい。

憧れの巨人に入団するも……

「入団会見のときに『ここにいるみんなと一軍で活躍したい』と言っているんです。今思うと、こんなことを言っているようじゃダメ。“みんな”じゃなくて“自分は”なんですよね。入団したときは外野の長距離ヒッターという自負がありましたけど、松井、広澤さんのフリーバッティングを見たときに自分の立場というか行き場を失った感がありました。アベレージヒッターになるしかないなと思いながら大きいのを狙ったりと、割り切りができなかったです」  入団時の外野陣には、松井秀喜、広澤克己、吉村禎章、緒方耕一、シェーン・マック、一塁には落合博満がいる超巨大戦力だとわかっていても、大野は幼き頃から憧れの巨人に入りたかった。  この頃の巨人は毎年FAで大物選手を獲得している時期であり、97年清原和博、2000年江藤智、また98年はドラフト1位で高橋由伸が入団するなど、当時の巨人のレギュラーになるには他球団と比べものにならないくらい険しい道のりだった。
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長嶋監督からも期待をされる
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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