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パートナーに理想や成長を求めるのは愛ではない。不幸になる構造の正体とは

理想を追い求めるあまり「今、ここ」の状態から目を逸らしていた

 僕を苦しめている構造の正体が見えてくるにつれ、妻に対する加害も本当の意味で理解し始められました。そして、それがどれほど罪深いことだったかということも。  いま、妻と生きる中で、幻視した理想や役割を押し付けないということを、いま現に生じていることから現実を構成するということを、強く意識しています。  人を愛するということは、だから「XXする」という能動的な形よりもむしろ、「YYしない」という否定系で語られるものなのかもしれません。 ・相手が喜ぶことをする以上に、相手が嫌がることをしない ・褒めたり感謝すること以上に、相手に勝手な期待をしない ・同じことを楽しむこと以上に、相手が大切なことを馬鹿にしない  過ちを繰り返しながらも、過ちを認めることを通して、少しずつ愛することができるようになり「くつろげる関係」を妻と持つ中で、さまざまな依存が減っていきました。  妻に暴力的に何かを要求することも、長時間にわたって説教し続けることも、アルコール依存も、気絶するように眠るまで読み続けていた漫画やtwitterなど文字への依存、過食衝動といった「何も考えないようにするための自己破壊的行為」が減っていきました。

愛することは何かをするのではなく、相手の存在そのものを受容すること

 相手の存在を受容するという態度は、いつのまにか自分にも向いていたのです。ここにいない理想の自分との差分に由来する自己否定感情が薄れ、いまここにいる、不完全で過ちを犯す、愚かで、しかし紛れもない自分自身の存在を認められるようになってきたのです。  昔は妻に心配されることで愛を確かめようとしていました。いまは元気であること、余裕を持つことを通して、妻が疲れている時や元気がないときに支えられるような状態を維持すること自体が、それこそが愛することの一環なのだと思うようになりました。  こんなふうに思えたことは人生で一度もありませんでした。  愛するとは存在を受容すること。それは、その人の「いま、ここ」に感じる・考える・行動することを尊重すること。  尊重するとはつまり強要しないこと。誰も誰かに何かを強制することはできない。思い通りにならない時「ガッカリ」しないこと、罪悪感で人を縛らないこと。つまり「期待しない」こと。  初めて妻に「期待しないようにしている」と言われた時すごく驚きました。自分は捨てられるのかと驚き、怖かったのを覚えています。  期待され、それに応えることが愛だと思っていたからです。
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「期待しない」ことは見捨てることではなく、相手に変な幻想を抱かないということ
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