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沖縄返還50周年でも残り続けるウチナーンチュとナイチャーの“消えない壁”

沖縄出身者の心に残る“戦争の傷跡”

 この境界線の根源は何だろうかと、ずっと考えていた。そして、行き着いた答えがひとつある。すべては戦争が影響しているのだ。  太平洋戦争末期、国内で唯一の地上戦が繰り広げられた沖縄では、日本軍9万4136人、米軍1万2520人もの死者を出した。この数字に加え、9万4000人以上もの沖縄の住民が戦闘の巻き添えを食って帰らぬ人となり、沖縄出身の軍人・軍属を含め、県民の4人に1人が亡くなったと言われる。  この忌まわしい沖縄戦では、多くの“日本兵”が敗走する際に避難所のガマ(自然鍾乳洞)や壕に押し入り、避難している沖縄県民に対し暴挙を繰り返したとされる。ガマ内での日本兵によるむごたらしい惨劇を取材等で知るたびに、同じ日本人として慚愧に堪えない。ナイチャーとして恥ずかしさどころではなく、ウチナーンチュに一生恨まれても当然だという思いにいつも駆られる。だからと言って戦争体験者のおじいやおばあはナイチャーに対し面と向かって恨み節のひとつも言わない。実際は煮え滾るような思いがあるはずなのに、まるで菩薩さまのように達観し、優しく受け入れてくれる。接するたびに、心を揺さぶられる自分がいる。  50代以上の「ウチナー」は沖縄戦の話を両親、祖父母の代から直接耳にして育っている。終戦を迎えて76年、沖縄が本土復帰して50年。日本人にとって太平洋戦争が縁遠いものになった令和の今も、ウチナーンチュの心の奥底には、戦争での傷跡が未だにありありと残り続けているのだ。  戦争体験者の“おじい”や“おばあ”たちの子ども世代と親しくなればなるほど、ナイチャーに対し良からぬ感情を持っていることを吐露する場面に遭遇することが少なくない。特に、沖縄が本土復帰した昭和47年(’72年)から昭和63年(’88年)の期間に高校を卒業した現在50〜60代の世代にこの傾向は見られる。彼らは、大学進学や就職をきっかけに内地にと飛び出していった者が多い一方、内地で“沖縄への差別”をもろに受けてきた世代でもある。

本土で相次いだ“沖縄人差別”

 ‘70年代はアパートを借りるにしても「琉球人はお断り」といった文言が堂々と記載されていた。沖縄出身者に対しても、どこか偏見を孕んだ好奇の目が向けられた。無論、同じ“日本人”であるのに、だ。  こうしたあからさまな差別はさすがになくなったものの、現代においても「沖縄出身者はだらしがない」「お金にルーズ」といったレッテルが貼られがちなのは否めない。冒頭の朝ドラ『ちむどんどん』では、ヒロインの兄・賢秀が足に地を着けて働きもせず金にルーズなダメ男として描かれるが、「沖縄の男あるある」だと変に納得したコメントがSNSに散見される。南国の男はどこかだらしないと知らず知らず決め付けている人が多いのだ。  私のような移住者は、何十年と沖縄に住もうがウチナーンチュにはなれない。目に見えた差別はないけれど、大事なところで境界線を張られている。現に、沖縄の某出版社からは間接的に「内地で出している本はまったく面白くない」「内地の出版社でしか書かない作家は嫌い」と言われたりもした。だが、先述の歴史から見ても、ナイチャーが忌み嫌われることをしてきたのだから当然の仕打ちだとも思っている。
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”見えざる壁”に生じつつある変化
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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