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90歳のレジェンド・広岡達朗が今明かす長嶋茂雄との関係性。”打撃の神様”に嫌われて

囁かれる長嶋茂雄との確執の真相

 ’50年代初頭のプロ野球界にとって、広岡の登場は斬新かつ衝撃的なものだった。それまでの遊撃手といえば職人気質の小兵のイメージだったが、広岡は180センチの長身で都会的センスを纏い、長い手足を生かした華麗な守備、強肩強打でファンを沸かせた。その姿はまさに、新時代のショートの出現であり、新しい時代への幕開けでもあった。  東京六大学のスターからプロ野球のスターとなった選手といえば、長嶋茂雄が筆頭とされる。だが実は、長嶋が入団する4年前にすでに広岡がその道を切り開いていたのだ。こうして満を持してプロ野球最大のスター長嶋茂雄が巨人に入団。プロ野球屈指の黄金の花形三遊間コンビが誕生した。 「長嶋は守備が凄い。どんな球に対しても回り込まず直角に入る。あの守備は勉強になった。でも、それも入団してから四年間だけだったな。ある日なんか『ヒロさん、今日は動けませんから頼みます』って言うと、本当に動かなかったんだから。そういうことを言うときに限って前夜いろいろあったのがすぐわかる。面白い男だよ」  今の球界に、長嶋茂雄を呼び捨てにしながら当時を語れるのは広岡だけである。一時、球界内外では広岡と長嶋の不仲説が流布されていたが、まったくのデタラメ。引退後も長嶋は「ヒロさん、ヒロさん」と広岡を慕い、広岡も長嶋を「面白い男」として可愛がっていた。

不仲説が流れたきっかけ

 そもそも両者の不仲説が流れた要因となる出来事があった。’64年8月6日「長嶋ホームスチール激怒事件」だ。 「国鉄スワローズ(現ヤクルト)との対戦で0対2とリードされた7回1アウト三塁。三塁ランナーが長嶋。普通に考えたらこの状況でホームチールなんてありえない。しかし、監督の川上さんが長嶋だけにわかるサインを出した。この2年前にも同じことがあった。国鉄戦で延長11回、2対1とリードされ2アウト三塁。この場面でのホームスチールはまだわかる。でも、0対2で負けていて7回1アウト三塁の場面ではまず考えられない。長嶋は好い奴だからサイン通りやっただけ。問題は川上さんよ。俺への仕打ちとしか思えない。まったく信用されてないことへの苛立ちから、そのまま家に帰ってやったよ」  ホームスチールは失敗し、広岡は次の球を空振りして三振。そのままロッカー室へ直行し家に帰ってしまった。つまり試合放棄だ。この事件により、巨人内における広岡の立場が危うくなっただけでなく、巨人史上稀に見る大問題へと発展していくのだった。ことの始まりは、〝打撃の神様〟川上哲治との確執がすべてだった――(次回に続く)。
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

92歳、広岡達朗の正体92歳、広岡達朗の正体

嫌われた“球界の最長老”が遺したかったものとは――。


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昭和のプロ野球界を彩った男たちの“信念”と“生き様”を追った渾身の1冊

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