更新日:2022年09月26日 16:11
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浅慮の果ての国葬<著述家・菅野完氏>

「靖国神社擁護論」の崩壊

 しかも安倍晋三の国葬を希求する「保守層」は知らず知らずのうちに、思想的隘路に陥り始めてもいる。  安倍政権を支えた「保守層」の中心にして最大の勢力であった日本会議は、なぜか9月6日になって、公式WEBサイトに「安倍晋三元総理への追悼の言葉」と題する文書をおそまきながら公開した。この文書は安倍晋三が如何に偉大な指導者であったかを褒め称えるもので、彼らが安倍晋三の功績とする項目を列挙するくだりに、こんな一言がある。 「さらに「国立追悼施設構想」の白紙化、靖国神社参拝、硫黄島訪問など英霊顕彰にも尽力されました」  なるほど確かにそうだろう。日本会議及びその周辺の「保守層」は、安倍晋三に「英霊顕彰」こそを期待していた。彼らが毎年敗戦記念日に靖国神社の参道で行う「戦歿者追悼国民集会」なる奇妙奇天烈なイベントが、安倍晋三内閣誕生以来、突如熱を帯び出したのは、彼らが「安倍なら首相の靖国公式参拝をしてくれるだろう」と期待を寄せていればこそだし、安倍の方でも「公式参拝をしたいのだが妨害が多い」とまるで吉原の花魁が客の気を引く手管のようなことを言い続けることで「保守層」の気を引き続けていた。  注目すべきは、「保守層」にとって「英霊顕彰」は靖国神社でなされなければならないというこだわりがあるという点だ。彼らが先の文書で「国立追悼施設構想の白紙化」を安倍晋三の「功績」だと規定するのはその証左の一つ。「国立追悼施設構想」とは、戦歿者慰霊のために特定の宗教によらない無宗教の追悼施設を国家として保有すべきだという議論で、2000年代初頭には盛んに議論された。  しかし「保守層」はそれでは慰霊にならないというのだ。戦歿者の慰霊は従前通り、靖国神社で神式で行われるべきであり、国家としての慰霊なのだから内閣総理大臣はそれに公式参拝、つまり、職務として参拝すべきであるというのである。  少し考えればこの主張が政教分離原則に違反することぐらいわかりそうなものだが、とにかく彼らはこの主張にこだわり続けている。そして苦し紛れに「そもそも慰霊行為はどう取り繕おうとも宗教的行為なのだから、神式でも問題ないはずだ」という牽強付会な論理で自分達の珍奇な主張を取り繕っている。  しかしどうだろう。その「保守層」が一方で希求する「安倍晋三の国葬」は「国葬」である以上、憲法の規定する政教分離原則に従い、完全なる無宗教形式で行われる。彼ら「保守層」が国家に大功あったという政治家の「国家としての慰霊」が「無宗教」で執行されるわけだ。国家に大功あった政治家の慰霊が無宗教で執行可能であるのならば、同じく国家に大功あった、あるいは国家のために殉じた「英霊」の「国家としての慰霊」も無宗教で実施可能ではないか。  だとすると、もうこれ以上、靖国神社にこだわる必要などあろうはずもない。国立慰霊施設でも作り、安倍晋三の国葬と同じように無宗教で、戦歿者や国事殉難者を国家として慰霊すればよいだけのこととなってしまう。  この矛盾を解消するためには、あるいは反対に「安倍晋三の国葬が無宗教であることはまかりならん。慰霊はどのみち宗教行為だ。選挙演説中に凶弾に倒れたことからも国事殉難者として靖国神社の英霊と同様、神式で慰霊すべきである」とでも主張するしかなかろう。しかしそんな主張が通るはずもない。  もはやこれは理論の行き止まりである。安倍晋三の国葬などという軽挙妄動がなければ「保守層」は元来の「靖国神社擁護論」を堅持しえたはずだった。だがもうそれも叶うまい。これから彼らがどれだけ靖国神社靖国神社と騒ごうとも、この思想的隘路に陥った彼らの声が説得力を持つことはもはやあるまい。  本稿執筆時点では国葬が中止になる気配は一向にない。岸田内閣も岸田内閣に配慮された「保守層」もこのまま突き進むのだろう。その結果、岸田内閣も致命的な傷を負い「保守層」は抜け出せない思想的隘路に陥る。  と、考えれば国葬を強行するのも一興かもしれない。おそらくこの国葬は、安倍晋三を弔うだけでなく、この10年の日本の政治を歪めてきた、愚かでいかがわしい勢力もろとも弔う国葬になるのだろうから。 <文/菅野完 初出:月刊日本10月号>)
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月刊日本2022年10月号

特集①与野党を解党して、政界を再編すべし!
特集②国交正常化50年 日中関係改善に乗り出せ

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