「水俣病と原発の構造は同じ」記録映画作家・西山正啓監督
水俣病の語り部で、2008年に69歳で亡くなった杉本栄子さん。その人生を追ったドキュメンタリー映画『のさり 杉本栄子の遺言』が完成した。なぜ今水俣病の映画を発表したのか、この作品で何を伝えようとしているのか。記録映画作家の西山正啓監督に聞いた。
――題名の「のさり」とは、どういう意味でしょうか。
ゆんたんざ沖縄』『しがらきから吹いてくる風』『梅香里(メヒャンニ)』シリーズ「原発震災を問う人々~女たちのレジスタンス」『脱原発~いのちの闘争』や、シリーズ「ゆんたんざ未来世」など国策に翻弄されてきた地域の人々を記録し続けている。2014年3月、『のさり 杉本栄子の遺言』と同時に、原発と沖縄の米軍基地政策の強制に抗う人々を記録した『獅子たちの抵抗』も発表。上映会開催の問い合わせはメールaitaro7@yahoo.co.jpまで
<取材・文/北村土龍 写真/『のさり 杉本栄子の遺言』より>
西山:「のさり」とは、水俣地方の方言で「大漁」のこと。「今日はのさったねー」などと言います。普通は良いことを表現するときに使う言葉ですが、水俣病となった杉本さんの父は、「水俣病は『のさり』と思え」と言ったそうです。初めは理解できなかったものの、数十年たってからようやくその意味がわかったと言っていました。
杉本さんは1939年、網元の娘として生まれました。’56年に水俣病が公式確認され、’59年には杉本さんの母親が水俣病を発病して伝染病隔離病棟に強制入院させられます。そのころ、水俣湾の魚を食べていた多くの人に麻痺や痙攣などの症状が現れ、死者も出始めていました。当時、水俣病は原因不明の奇病・伝染病として恐れられていて、杉本さん一家は親戚や村の人々から差別を受けるようになりました。でも本当は、有機水銀に汚染された魚介類によるものだということは当時からわかっていたのです。そんな辛い体験さえも「のさり」と思うことは、受難を受け入れて前に進むための強烈な哲学だと思います。
――なぜ今、水俣病の映画を発表したのですか。
西山:原発事故があって、僕も福島に入りましたが、日々状況が目まぐるしく変わり、この3年間、目先の対応に追われ続けていました。このあたりで一度、ずっと追い続けてきた水俣と沖縄、そして福島について整理したかったんです。
それから、国や企業が儲けばかりを優先した結果として被害が拡大したにもかかわらず、情報を隠して責任をとろうとしない。この水俣病の構造は、今の原発事故の状況とよく似ているんじゃないかと。中枢神経を侵す有機水銀は、放射性物質と一緒で食べ物に含まれていても目に見えないし、食物連鎖で濃縮される。
単純な比較はできませんが、水俣病事件が起きてから国は健康被害についての実態調査をしなかった。それが60年間かけても解決できない原因になっています。1995年に政治的和解はしますが、症状に苦しんでいる患者さんはまだたくさんいますし、偏見もなくなったわけではありません。水俣病はまだ終わっていないのです。
――いつから水俣病を撮っているのですか。
西山:僕は1977~81年、生涯にわたって水俣病を記録し続けた土本典昭監督のもとで助監督をしていました。土本さんは1972年にストックホルムで開催された国連人間環境会議へ、水俣病のドキュメンタリー「水俣~患者さんとその世界」を持って参加したのです。それ以来、土本さんは水俣病を追い続けましたが、残念ながら杉本さんと同じ2008年に亡くなりました。映画の完成は、お2人の7回忌に何としても間に合わせたかったという気持ちがありました。
――映画では、杉本さんが子どもたちに語ったり踊りを教えたりして、地域の再生に努力する姿も描かれていますね。
西山:現在の水俣は、地域として立ち直ろうと懸命の努力している。世界に誇れる環境先進都市を目指す取り組みをしています。環境を重視した教育と地域づくりを積極的に行い、分断されていたコミュニティも少しずつ回復して、「水俣に生まれたことを誇りに思う」という子どもたちが育ち始めている。
苦しみを乗り越え、未来を見据えて希望を持って生きる人の姿は美しい。杉本栄子さんが遺してくれた、水俣病受難から回復していく姿を通して、人間にとって大事なものは何か、地域にとって大事なものは何かを感じ取っていただければ幸いです。
【西山正啓】
1948年山口県生まれ。記録映画作家。監督作品に『
『ゆんたんざ沖縄』 今、平和と戦争に向き合う |
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