音楽プロデューサー松尾潔が考える“読む音楽”の未来「裏方が闇方になってしまう」
ある映画を観たとき、その作品を「誰が作ったのか?」を知るためには、最後のスタッフロールまで見ればいい。では、音楽はどうか? CDに付いているクレジット表記を見ればいい、とは言いにくい状況になってきている。
いまや、配信販売やサブスクリプション型(定額制)音楽配信サービスの浸透により、音楽を聴くためにCDなどを所有する必要がなくなった。
これにより、制作者のクレジットのみならず、“ライナーノーツ”(アルバムに付属される解説文)などで「音楽について知る」「音楽について読む」という行動をする人が激減していることが否定できない。
◆裏方が「闇方」になる
この傾向について、平井堅・CHEMISTRY・EXILE・東方神起・JUJUなど数多くのトップアーティストの楽曲制作に携わり、音楽プロデューサーとして日本のミュージックシーンを牽引してきた松尾潔氏に話を聞いた。
――配信、そして「AWA」「LINE MUSIC」「Apple Music」といったサブスクリプション型音楽配信サービスの登場により、音楽作りに携わっている“裏方”の名前が世に知れ渡りにくくなっているように感じられますが、松尾さんにはその実感はありますか?
松尾:僕の場合、作詞や作曲でクレジットに入ることもあるので、まだカラオケなどで名前が出るんです。
ただ、スタジオミュージシャンなどの名前は知られにくくなっているでしょう。僕らの業界には、“スタジオでは超有名人”という人がいるわけです。レコーディング依頼が常に殺到しているギタリストとかね。でも、さすがにカラオケにそういうミュージシャンたちの名前が出てくることはない。クレジットが掲載されたデジタルブックレット付きの配信もあるにはありますが、配信やサブスクリプションでは名前が出ないことが多い。
そうなると、優秀な裏方の人に本当に光が当たらず、裏方というより“闇方”になってしまうんじゃないかっていう危惧はありますね。
◆「音楽について読ませる」ことが難しくなる
松尾氏は、音楽制作に携わる以前の1988年から1998年にかけて、主にブラックミュージックの音楽ライターとして世界を飛び回り、多数のライナーノーツの執筆も手掛けてきた。ライナーノーツ文化が危機に瀕していることについてはどう考えているのだろうか?
松尾:ライナーノーツがなくなるということはつまり、新譜の取り扱い説明書がなくなるということです。よく言えば “音勝負”“楽曲勝負”の時代に突入したということですが、そもそもトリセツがないと触り方が分からないアートが多いことは事実。
そういう意味で、ライナーノーツ的な役割を果たすものというのはなくならないと思います。それは音楽ブログだったり名盤解説の書籍という形だったりで今後も残り続けていくでしょう。ただ、CDアルバムに付属されるライナーノーツというのは、サブスクリプションが息の根を止め、事実上終焉してしまうのかもしれませんが。
――つまり、「音楽について読む・知る」という行動まではなくならない、ということですね。
松尾:もちろん、そうです。むしろ、サブスクリプションによって音楽を聴く“器”がネットに移行したことは、「ディスクガイドを読みながら音楽(アルバム)を聴く」という行動をより効率的にさせる可能性があると思います。あと、例えば「Apple Music」などでは各プレイリストからオリジナルアルバムにさかのぼることも容易です。「知る」の入口は確かに広がってはいるのです。
ディスクガイドとなる電子書籍を読んで理解を深めながらアルバムを聴く。しかも、月1000円ほどの定額で無限に聴き続けられる。文章コンテンツのマネタイズのことは考えずに話していますが、主体的なリスナーにとっては夢のような環境がすでにスマホ上で整いつつあるわけです。
ただ、ネット上でリスナーに主体的に「読ませる」ということは、ある程度の発信力が必要になります。専門性の高い音楽ライターよりも、津田大介さんや佐々木俊尚さんのようなネットと親和性の高い著名ジャーナリストやブロガーが好きな音楽について書くほうが発信力があるのは明らか。音楽ライターとして名を上げ、音楽について“読ませる”ことは今後相当難しいと思わざるを得ません。昔通りというシニカルな見方もできますが。
◆音楽エッセイに挑んだ理由
このように語る松尾氏だが、同氏は今年6月、昨年刊行した『松尾潔のメロウな日々』に続く音楽エッセイ集『松尾潔のメロウな季節』(ともにスペースシャワーネットワーク)を上梓したばかり。
この『メロウな~』シリーズは、ジェームス・ブラウンやクインシー・ジョーンズ、ジャネット・ジャクソンやマライア・キャリーなど、松尾氏が音楽ライター時代に実際に会って取材してきた本場アメリカのR&Bアーティストと過ごした時間や、彼らの出自について書かれたものだ。ディスクガイドの性格とは異なる。
日本のブラックミュージックファンのあいだでは「R&B書籍の最高到達点」と絶賛され、発売直後に品切れ状態になるほど人気を集めている同シリーズだが、「音楽について読ませる」のが難しいこの時代、松尾氏はなぜこのような音楽エッセイのスタイルに挑んだのだろうか?
――『メロウな』シリーズのスタイルは、どのように決められたのですか?
松尾:まず僕の場合、ライター時代に世界のトップアーティストたちと実際に会ってきたという、絶対的な担保となる一次情報があったんですよね。音源を聴くだけ、ライブを観るだけでは得られない、僕でしか発信できない情報が。
そのうえで、R&Bの「教科書」のようなものとは違う形にしたいと思っていました。本を出し、それを買ってもらうからには、音楽ブログで事足りるようなものとは違うステージの内容を書かなければいけない。それならば、そういう「教科書」的な文章を踏まえたうえで個人的な体験も聞かせる「講義録」のようにしたかったんです。
たとえば大学時代の印象に残ってる講義って、教科書を読むだけのものではもちろんなく、ときに脱線しながらも学生たちひとりひとりに語りかけてくるような講義ですよね。この本も同じで、眼差しは“みなさん”じゃなく“あなた”なんです。ソウルバーで隣に座ったオジサンがやたら音楽に詳しくて、自分の体験をまじえながら語っている――そんなシチュエーションも意識しました。
――「講義」となれば、教科書の予習も必要です。読者はある程度選ばれると思いますが、本を書き上げるうえでその点の苦労はありましたか?
松尾:僕は欲張りなので、いわゆるディスクガイド形式ではないがその機能は満たしたい、という思いもありました。ただそのうえで、教科書ではなく講義録にするため、松尾潔だけのコンテクストをいかに強固に作り上げ、いかに明快に提示するか、そしてそのためにふさわしい文体は何か? ということはすごく考えましたね。
米英の著名なミュージックマンの回顧録の類型的な表紙を模した、モノクロの僕のポートレートをあしらった表紙も、写真を使わず文章だけで構成したのも、考えに考えた結果です。これからの時代に音楽を言葉に表すうえで、「こういう召し上がり方はいかがですか?」と提示したつもりで、その試みは粗方成功した実感をもってますね。
2008年には、作詞・共作曲・プロデュースを手掛けたEXILEのシングル『Ti Amo』で日本レコード大賞を受賞した松尾氏。音楽プロデューサーとして多大な成功をおさめた後に“ライター”に回帰し、音楽制作と執筆活動を並行して行っている現在の松尾氏には、まさに「音楽文化の伝道者」という言葉がふさわしい。
<取材・文/宇佐美連三>
『松尾潔のメロウな日々』 最高にして最強のR&B書 |
『松尾潔のメロウな季節』 真摯な音楽評論集 |
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