ショーン・ウォルトマンはロックンロールの魂を持っている――フミ斎藤のプロレス読本#101【ショーン・ウォルトマン編エピソード1】
―[フミ斎藤のプロレス読本]―
199X年
一生のうちにそう何人もめぐり逢うことはないであろう、無条件に感動できるくらいの正真正銘のプロレス人間である。まだそれほどメジャーとはいえないし、トシも頭の中身もまだ子どもとオトナのあいだくらいのところにいる。
いったいだれのおはなしかといえば、ライトニング・キッドのことだ。本名はショーン・ウォルトマン。年齢は20歳。朝から晩までプロレスのことばかり考えている。
ちいさいころからプロレスラーになることだけを夢みてきた。想像力が豊かで、観察力が鋭い。感受性が強いといったほうがより正確かもしれない。
20歳の若さでプロレスのキャリアは4年になる。1日でも早くリングに上がりたくて、ハイスクールを中退した。ここまでなら日本でもよくあるはなしかもしれない。
ショーン=キッドの苦労は16歳からはじまった。アメリカのレスリング・ビジネスには日本のような団体システムもないし、同い年くらいの新弟子たちがいっしょに暮らせる合宿所のようなところもない。
プロレスラーになりたかったら、安くはない授業料を払ってレスリング・スクールに通わなければならばい。フロリダのタンパで育ったショーン=キッドは、迷うことなく名門“マレンコ道場”の門をたたいた。
もちろん、授業力を払えるあてはなかったけれど、校長のラリー・マレンコさんに頼み込んで、なんとかタダで練習をさせてもらうことができた。“特待生”になる条件は、ほかの練習生や現役組のトレーニングの実験台になることだった。
危ない投げ技やスパーリングのなかでの関節技の“やられ役”をしながらショーン=キッドはレスリングの基礎を学んだ。
生活費を稼ぐためにリングの設営・撤収のアルバイトもした。子どものころからNWAフロリダのリング屋さんのボスだったゴードン・ネルソン――現役時代はコワいレスラー――とは顔見知りだったし、タダで試合をみせてもらうためにいつもゴードンさんの手伝いをしていた。
ゴードンさんもいまでは「ユーみたいなスキニーな子がよくレスラーになれた」といってほめてくれる。
“マレンコ道場”でひととおりの練習期間を終えたショーン=キッドは、18歳の誕生日にミネアポリスに引っ越した。
タンパにいてもなかなか試合がない。ミネアポリスへ行けば毎週、ウィークエンドにはどこかでインディペンデント系のショーがあるらしい。ミネソタには親せきの叔父さんがいたし、常夏のフロリダ生まれのショーン=キッドはホンモノの雪をみたことがなかった。
ミネアポリスのインディー・シーンのボスは、ロード・ウォリアーズの師匠として知られるエディ・シャーキーだった。シャーキーはコーチとしては優秀かもしれないが、プロモーターとしてはファイトマネーをケチることで悪名高かった。
ショーン=キッドは、それでもとにかくリングに上がりたかった。ライヴハウスのギグの匂いをかぎつけて町から町を放浪するロックンローラーの心情である。それにミネアポリスにはレジェンドがたくさん住んでいるから、その人たちにも会ってみたかった。
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