ランディ・サベージ マッチョマンの孤独――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第66話>
ハルク・ホーガンと長編ドラマのロングランをくり広げたスーパースターだった。
“レッスルマニア1”(1985年)から“レッスルマニア3”(1987年)までが“ホーガン物語・第1章”だとすると、“レッスルマニア4”(1988年)から“レッスルマニア8”(1992年)までの5年間がWWEにおける“マッチョマン”ランディ・サベージの時代ということになる。
ベビーフェースとしてもヒールとしてもつねに主役のポジションを演じつづけた。
“レッスルマニア3”(1987年3月29日=ミシガン州ポンティアック、シルバードーム)でのリッキー・スティムボートとのインターコンチネンタル選手権は、いまでもプロレス史に残る名勝負として語り継がれている。
体格的には“小型ホーガン”のような筋肉マン・タイプだったが、ディテールにこだわったキメのこまかい動きをつねに計算し、リングの広さやトップロープの高さをひじょうにうまく観客に伝える“2階席からもよくわかるプロレス”の名人だった。
サベージがテッド・テビアスを下しWWE世界ヘビー級王座を獲得し、最愛のパートナーであるエリザベスElizabethの肩にチャンピオンベルトをかけた“レッスルマニア4”の感動のラストシーンがサベージのスーパースターとしてのステータスを不動のものにした(1988年3月27日=ニュージャージー州アトランティックシティー)。
“マッチョマン”なるニックネームで親しまれたサベージは、リアリティーとファンタジーの区別がつかない世界を生きた。
サベージのよこにはいつもエリザベスが立っていた。エリザベスは台詞をしゃべらないキャストだった。ふたりはほんとうの夫婦だったけれど、テレビの画面のなかでは古典的な“美女と野獣”の設定をかたくなに守り、それが観客のイマジネーションをくすぐった。
エリザベスの存在がのちのDIVA路線のモチーフになったことはいうまでもない。
サベージとエリザベスの恋愛ドラマはリング上でのプロポーズ、リング上でのウエディングという最高のクライマックスを迎えた(1991年8月26日=マディソン・スクウェア・ガーデン)。
しかし、それまで8年間つづいていた“沈黙の結婚生活”は挙式からわずか1年で破局。サベージはもともと結婚の公表には反対だったという。
サベージとホーガンは宿命のライバルであり、あるときは親友で、またあるときはおたがいがおたがいを「あいつさえいなければ」と考える存在。ふたりはリングの上でもプライベートでもじっさいにそういう関係だった。
ホーガンがWCWに移籍すると、サベージもそれから半年後にWWEを退団し、ホーガンを追ってWCWに移籍した(1994年12月)。
WCWはホーガンとサベージの長編ドラマの“再放送”をプロデュースし、ホーガンがヒールに転向して“nWo編”という新しいドラマがはじまると、サベージもブラック&ホワイトのコスチュームを着てこのドラマのおもな登場人物のひとりになった。
サベージとホーガンの人間関係が決定的にこじれてしまったのは、ホーガンがエリザベスをWCWの連続ドラマのキャストに起用したときだった。
サベージとエリザベスは実生活ではすでに離婚していたため、サベージはエリザベスの“職場復帰”を反対した。
ホーガンは「仕事とプレイベートは別」とクールに考え、サベージは「仕事とプライベートは別だからこそあってはならないこと」ととらえた。
エリザベスはサベージと離婚後、フロリダ在住の弁護士と再婚したが、その結婚生活も1年で破局。エリザベスの“黙して語らず”のスタンスは、仕事でもプライベートでも最後まで変わらなかった。
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