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“カウボーイ”ボブ・オートン レスラー仲間からリスペクトされたバンプ=受け身――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第65話>

“カウボーイ”ボブ・オートン レスラー仲間からリスペクトされたバンプ=受け身<第65話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第65話は「“カウボーイ”ボブ・オートン レスラー仲間からリスペクトされたバンプ」の巻(Illustration By Toshiki Urushidate)

 ロディ・パイパー、ポール・オーンドーフとともに1980年代前半のWWEの大悪役トリオとして活躍した。

 パイパーがおしゃべりの達者なグループのリーダー格、オーンドーフが元プロ・フットボール選手の筋金入りのアスリートといった役どころだったのに対し、テンガロン・ハットに革ベストの“カウボーイ”ボブ・オートンはバンプ(受け身)がとれる寡黙なボディーガードというポジションだった。

 “レッスルマニア1”(1985年3月31日=マディソン・スクウェア・ガーデン)のハルク・ホーガン&ミスターT対パイパー&オーンドーフのタッグマッチでは、ホーガン・チームにはジミー・スヌーカ、パイパー・チームにはオートンがそれぞれセコンドについていた。

 じつはこのレイアウトには、スヌーカとオートンがリングサイドで大乱闘を演じることによって観客の視線をできるだけミスターTからそらすという目的があった。

 アクション映画俳優のミスターTはこの試合のために約1カ月間、プロレスのトレーニングを受けたが、そんなにかんたんに試合ができるようになるはずはなかった。

 オートンはミズーリ大中退後、ヒロ・マツダ、エディ・グラハム、ジャック・ブリスコの3人のコーチを受け、1971年にフロリダでプロレスラーとしてデビューした。

 デビュー当時は父“ビッグO”ボブ・オートンとの“親子タッグ”で南部エリアをサーキットし、その後は約3年間、ニック・ボックウインクルの“子分”として北部AWAに定着。

 1970年代後半の数年間はオートン・シニアのブッキングでテネシー州のインディペンデント団体ICW(インターナショナル・チャンピオンシップ・レスリング=アンジェロ・ポッフォ代表)に合流し、ここで若手時代のランディ・サベージと出逢った。

 オートン対サベージのインディー時代の試合は、残念ながら映像として残っていない。

 父オートン・シニアは孫のランディが誕生した1980年に引退し、ここから“カウボーイ”オートンはシングルプレーヤーとしての道を歩みはじめた。

 父親がプロレスラーだったため子どものころは2年から3年にいちどずつ引っ越しをくり返したオートンにはホームタウンと呼べる土地がなかった。

 6フィート3インチ(約190センチ)の長身、ナチュラルなブラウンのカーリーヘア、ブラウンの瞳というやや地味なルックスにはカウボーイのコスチュームが必要だったのだろう。

 オートンは、観客よりもレスラー仲間からリスペクトされるタイプのレスラーだった。実力的にはトップクラスであるにもかかわらずチャンピオンベルトに興味を示さず、記録に残っているタイトル歴はわずかにフロリダ・ヘビー級王座、フロリダ・タッグ王座(パートナーはポブ・ループ)、ICW・TV王座、NWA世界タッグ王座(パートナーはドン・カヌードル)など。

 ひとつひとつの技に独特のリズム感とモーションを加えるセンスは天才的で、なんでもないパンチ攻撃、エルボー、ニードロップ、ニーリフトなどがオートンの手にかかるとオリジナルの新技にみえた。

 キャンバスにイスを敷きつめてのスタッフト・パイルドライバー、セカンドロープ上に立ってのスーパープレックス(雪崩式ブレーンバスター)のバリエーションもオートンの考案とされる。

 初来日は全日本プロレスの『第3回チャンピオン・カーニバル』(1975年=昭和50年4月)。リングネームはボブ・オートン・ジュニアで、トーナメント1回戦で若手時代のジャンボ鶴田と対戦し、引き分けによる“両者失格”という戦績を残した。

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再来日は新日本プロレスのリングに登場

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