プロ野球選手の年俸事情、セ・リーグ6球団の億超えの歴史を振り返る
プロ野球界のオフといえば、毎年毎年契約更改の際に提示される年俸に注目が集まる。今年も“球団史上最速で○億円突破”などの枕詞が連日スポーツ紙に躍っていたほど。そこで12球団それぞれで最も早く夢の年俸1億円超えを果たした選手たちを調べてみた。まずはセ・リーグ6球団から(なお、本文中の年俸金額は推定)。
落合は中日のみならず、日本プロ野球界初の1億円プレーヤーである。’86年、当時ロッテ(現・千葉ロッテ)の不動の4番だった落合は打率3割6分、本塁打50本、打点116をマークし、前年に続く2年連続通算3度目の三冠王を獲得。この年の年俸9700万円から日本プロ野球界初の夢の年俸1億円超えが確実視されていた。
だが、自身の理解者であった稲尾和久監督が成績不振で解任されたことで球団との契約交渉が難航。移籍の道を選ぶことに。その移籍先となったのが、新監督に星野仙一が就任した中日だった。リリーフエース・牛島和彦を含む1対4の大型交換トレードによって“中日・落合”が誕生し、年俸1億3千万円で契約を更改。日本プロ野球史上初の1億円プレーヤー誕生となったのである。
’78年以来、14年ぶりにリーグ制覇した’92年オフに当時の主力3選手が一気に大台を突破した。広澤は前年に打点王、この年も打率2割7分6厘、25本塁打、打点85と好記録、池山もこの年、30本塁打を放ち、5年連続30ホーマーの偉業達成。そして古田は前年に初の首位打者に輝き、この年もリーグ3位の打率3割1分6厘。
このうち、池山は8000万円から、古田は6000万円からともに1億2000万円にまでアップしたのだが、これに焦ったのが広澤だった。とある取材で語っているが、それまで球団No.1の年俸を誇っていたこともあり、絶対にこの地位は「譲れなかった」。交渉の席で「同額ではなく10万円でも20万円でも上にして下さい」とダメもとで訴えたところ、二人をわずかに上回る1億2500万円が提示されたという。まさにプロの意地であった。
名門・読売巨人軍初の1億円プレーヤーは3人の生え抜き選手だった。’92年のシーズンで入団以来12年連続20本塁打の日本記録を更新した主砲の原、この年、自己最多の27本塁打を放った好打者・駒田、そして17勝をマークし、3度目の最多勝のタイトルを獲得したエース・斎藤である。
中日ドラゴンズ 日本球界初の1億円プレーヤー 落合博満(1986年オフ)
東京ヤクルトスワローズ 球団最高年俸への執念…広澤克実、池山隆寛、古田敦也(1992年オフ)
読売ジャイアンツ 3人の1億円プレーヤー誕生も 原辰徳、駒田徳広、斎藤雅樹(1992年オフ)
原は前年の9900万円→1億2500万円に、駒田は9200万円→1億2000万円に、そして斎藤はなんと4200万円アップで7600万円から1億1800万円と一気の大台超え。それでも斎藤は年俸の“原超え”は出来なかった。実は斎藤はこの年まで4年連続2ケタ勝利を挙げており、貢献度は文句なし。それでも球団にとってはNo.1の看板選手はやはり“原”だったのである。
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