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ウクライナがチェチェン独立を事実上の承認。ロシア大崩壊の予兆か

ウクライナのために戦う「独立派チェチェン人」

10月18日、ウクライナ最高会議は、チェチェンの主権を認める声明を、賛成287票、反対0、無投票64で可決した。

10月18日、ウクライナ最高会議は、チェチェンの主権を認める声明を、賛成287票、反対0、無投票64で可決した。

 ロシア軍のミサイルやドローンによる攻撃が続く最中の10月18日、ウクライナ最高会議(国会)は、チェチェン共和国イチケリアの主権を認める声明を採択した(賛成287、反対0、無投票64)。  これは、歴史的意義のある決定だ。    チェチェンはロシア連邦に属する共和国で、人口は約150万人、岩手県ほどの面積しかない。その小さな共和国の主権を認めること、つまり「ロシアから独立した国」としてウクライナ国会が認めることに、なぜ歴史的意義があるのか。  ウクライナ戦争に関心の高い人は、「チェチェン」と聞けばプーチン大統領の傀儡のカドゥイーロフ首長が国内で独裁を振るい、その私兵をロシア軍の一員としてウクライナに侵略に参加させ、ウクライナ人を攻撃し狼藉を働いていることを思い浮かべるだろう。  それは事実なのだが、実は「もう一つのチェチェン」が存在するのだ。「もう一つの」というよりは「本来のチェチェン」が存在する。それは、ロシアの支配に屈せず、弾圧を受けてヨーロッパなどに亡命した独立派チェチェン人たちである。  彼らは、2014年にロシアがクリミアを一方的に併合し、ウクライナ東部を侵略したときからウクライナ入りして、ウクライナのためにロシアと戦っている。そして、2月の全面侵攻以降は、その数を増している。

チェチェンに侵攻し、「大虐殺」を行ったロシア

【閲覧にご注意ください】⇒ロシア軍により20万人以上のチェチェン市民が虐殺された  そもそもチェチェン人はロシア人とはまったく違う民族で、言語も文化も宗教(イスラム教)も風習も違う。16世紀末ごろから拡大をはかるロシア帝国との戦いが始まり、結局1860年代にはロシア帝国に武力併合された。  その後、何度もチェチェン人は独立のために立ち上がり、そのたびに武力でつぶされてきた。直近では、第一次チェチェン戦争(1994年12月~1996年8月)第二次チェチェン戦争(1999年9月~2009年4月)があり、約20万人が犠牲になった。戦争直前のチェチェンは人口100万人強だったから、「大虐殺」としか表現できない状況であった。  ソ連崩壊後に大混乱をきたしたロシア連邦は、およそ3年の間はKGB(国家保安委員会、後身機関はFSB)の暗殺や諜報活動も停滞し、対外膨張の動きがとどまっていた。    一転して大ロシア主義の再拡大に向けて動き出したのが1994年12月のチェチェン侵攻である。それ以降、大ロシア主義の拡大がつづき、プーチンによる第二次チェチェン戦争は、ウクライナ全面侵攻につづく暴走の起点と言わなければならない。ロシア軍は、チェチェンで犯した残虐行為をそのままウクライナで実施している。
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かつてはウクライナ人がチェチェンのために戦っていた
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ノンフィクション・ライター。週刊誌記者を経てフリーに。ロシア・チェチェン戦争を16回現地取材し『ロシア・チェチェン戦争の628日~ウクライナ侵攻の原点に迫る』(清談社パブリコ・第3回小学館ノンフィクション賞優秀賞作品の増補改訂版)を上梓。ほかに『増補版プーチン政権の闇』(高文研)、『不当逮捕~築地警察交通取締まりの罠』(同時代社)など

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