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チェチェン戦争から一貫して変わらない”プーチンの暴走”。世界は気づくのが遅すぎた

ウクライナ戦争を予言、爆殺されたチェチェン大統領

ウクライナ侵攻を“予言”した故ジャハル・ドゥダーエフ(チェチェン共和国大統領)

ロシアのウクライナ侵攻を“予言”していた故ジャハル・ドゥダーエフ(チェチェン共和国大統領)

 現在、世界中の最大の懸念事項となっているロシア軍のウクライナ侵略。このことを、今から27年前に“予言”していた人物がいた。 「国際社会は、ロシアによるチェチェン民族虐殺の事実から目を背けようとしている。この問題を見過ごすならば、大ロシア主義の矛先はやがてウクライナなど西へ向かう。そのときになってヨーロッパをはじめ世界は事態の深刻さに気づくだろう」  その人の名は、ジャハル・ドゥダーエフ。ロシア連邦からの独立を宣言したチェチェン共和国大統領である。1995年12月12日深夜のインタビューで筆者にこう語っていた彼は、その4か月後、ロシア軍に爆殺された。  2022年の現在、彼の“予言”どおり、ロシアはウクライナを軍事侵略し、大規模な戦闘と殺戮が進行している。  実は、チェチェン戦争(1994年12月~2009年9月)から今回のウクライナ侵略までは、一本の太い線でつながっているのだ。  ロシアの大規模侵攻がこのまま続き、占領が続いた場合にウクライナで何が起きるのか。チェチェン戦争を取材してロシア軍の行動をほぼリアルタイムで見てきた筆者にとって、おぞましい未来が予測できてしまう。それは、皮膚感覚レベルの恐怖を伴うものである。  今回のウクライナ危機に際しては、複雑な背景や入り組んだ経緯があるし、アメリカを筆頭とするNATO(北大西洋条約機構)側にも相当な問題があることは事実だ。  今回の侵略の根本は、専制主義や大ロシア主義を礎としたプーチンの思想と行動=プーチン主義(プーチニズム)ではないのか。一言で表現するなら「邪魔者は消せ」ということだ。彼が首相に就任した1999年8月16日から2022年2月24日のウクライナ侵略開始まで、「プーチニズム」という名の重機関車が爆走してきた。  暴走の起点はチェチェン戦争である。

独立宣言したチェチェン共和国で20万人が殺害

第一次チェチェン戦争で全滅に近い状態になったチェチェンの首都グローズヌイ

第一次チェチェン戦争で全滅に近い状態になった、チェチェンの首都グローズヌイ

 ロシア連邦南部にあるチェチェン共和国は、人口約100万人。面積は日本の岩手県と同じ。チェチェン人のほとんどはイスラム教徒である。そのチェチェンがソ連邦崩壊とほぼ同時にロシアからの独立を宣言していた。  チェチェンの独立をつぶすために、1994年12月にロシア軍が全面侵攻し、2009年4月に収束するまでに、20万人の死者行方不明者を出した(第一次チェチェン戦争1994年~1996年、第二次チェチェン戦争1999年~2009年)。筆者はチェチェンの現地取材を行い、その実態を『チェチェン 屈せざる人びと』(岩波書店)にまとめている。  ロシア軍は、町や村を包囲して攻撃指定範囲を全滅させるやり方だった。そのため犠牲者のほとんどは兵隊ではなく、非武装の住民だった。 「一週間で片がつく」という大方の予想に反し、1996年8月にチェチェン側が一斉蜂起し首都グローズヌイを奪還。超大国のロシア軍が実質的に敗北し、和平合意が成立した。  チェチェン市民の激しい抵抗もあったが、ロシア側でもロシア兵士の母委員会をはじめ、多くの人々の粘り強い反戦活動、ソ連崩壊後に自由を得たマスコミが戦争の現実を報道したこともロシア敗北の重要な原因だった。  アメリカに対抗するスーパーパワーだったソビエト連邦の崩壊で、社会は混乱し自信を失っていたうえに、豆粒のようなチェチェンに屈辱的な敗北(表面上は和平合意)を喫し、プーチンを含む権力者たちは我慢ができない状況だった。  休戦という名の「敗北」に怒り復讐を図っていたのは、ほかならヴラジーミル・プーチンであろう。そのことが明らかになったのは、数年後に第二次チェチェン戦争が始まったときだ。
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プーチンの暴走の始まりは、1999年の連続爆弾テロから
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プーチン政権の闇―チェチェン戦争/独裁/要人暗殺

ウクライナ侵攻以前から、プーチン政権の 危険性を告発していたジャーナリストの著書

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