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「誰も傷つけない笑いは綺麗事」アフリカ人父の映画を撮った“ハーフ芸人”武内剛が語る、今のお笑い

 カメルーン人と日本人の両親から生まれた「ハーフ芸人」として活動しているぶらっくさむらい氏@50takeuchi)が、本名の「武内剛(たけうち・ごう)」名義で映画『パドレ・プロジェクト』を製作した。
ぶらっくさむらい

ぶらっくさむらい氏

 2歳のときに一度会っただけのカメルーン人の父親を捜すために、自身がイタリアのミラノに行った過程を描いたドキュメンタリー作品である。インタビューの前編の記事では製作に関する苦労などを聞いたが、後編では映画の中でも描かれていた彼の生い立ちについて話を聞くことにした。 【前回記事を読む】⇒生き別れた父を探してイタリアに。ハーフ芸人・武内剛が語る「“芸人村”のご法度に挑んだ」ワケ

肌の色でいじめも「お前はエイズだろう」

――映画の中でも描かれていましたが、子供の頃には肌の色のことで特異な目で見られたりして、悩んでいたこともあったそうですね。 ぶらっくさむらい(以下、ぶらさむ):あんまりひどいいじめには遭わなかったけど、からかわれたりすることは結構ありました。1990年代初めのエイズが流行り出した頃だったので、同級生から「お前はエイズだろう」って言われたりとか。 ――それはひどいですね……。 ぶらさむ:そのときは僕も思わず腹立っちゃって、そいつを殴ったら「ごめん」って言われて。そこからは言われなくなりました。それが小学校の頃です。あと、小4のときに友達の誕生日会があって、そのときに誕生日だった友達がなぜか僕の髪の毛が欲しい、って言い出したんです。僕がアフロヘアでクルクルの毛だったのが珍しかったみたいで。  それで僕が嫌だと言ったら、みんなに羽交い締めにされて、その子がハサミで僕の毛を無理矢理切ろうとしたんです。そこで僕が必死で抵抗していたら、そのハサミがここ(眉間)にグサッて刺さっちゃって。今でもそのときの傷が残ってます。でもそういう経験をしたおかげで人の痛みが分かるようになったので、男の勲章みたいなもんですよ!

2回くらい捕まったこともある

ぶらっくさむらい――その後、高校生ぐらいの時期にはちょっと荒れていたこともあったそうですね。 ぶらさむ:そうですね。ヤンキーではなかったんですけど、中2のときに母親とイタリアに旅行して、そのときにグラフィティ(スプレーなどで公共の壁や列車などに描かれた文字や図像)を見て刺激を受けたんです。そこから音楽も好きになってアート系に行きました。友達とつるんでグラフィティをめちゃめちゃやってたんです。2回ぐらい捕まったこともあるし。あのときはちょっとおかしくなってましたね。反省しています。 ――当時は何らかのストレスがあったからそういう行為に走ったという面もあるんでしょうか? ぶらさむ:なんとなく疎外感は感じていましたね。日本にいると同調圧力がすごいし、特に僕が住んでいた名古屋は管理教育で有名だったので、すごく息苦しかったです。
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“一気に弾けた”20代のニューヨーク留学
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お笑いやテレビに関する評論、執筆、イベント企画などを手掛ける。『教養としての平成お笑い史』など著書多数。近著は『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで

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