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『おむすび』で一人気を吐く松平健(70)。知られざる“山あり谷あり”の俳優人生

主人公の祖父・永吉を演じる

マツケンサンバⅡ

『マツケンサンバⅡ』(ジェネオン・ユニバーサル)

朝ドラことNHK連続ドラマ小説『おむすび』の人気がなかなか高まらない。その中で我が道を行くのが松平健(70)である。橋本環奈(25)が扮するヒロイン・米田結の祖父・永吉を飄々と演じている。 健さんにとって朝ドラは芸能生活50周年にして初めて。「とてもうれしいです」。大スターにとっては小さなことに思えるが、本音らしい。ここまでの俳優人生が実は山あり谷ありだったせいでもあるだろう。 本名は鈴木末七。7人きょうだいの末っ子で、1953年11月に愛知県豊橋市で生まれた。幼いころから運動神経抜群で、中学では頼まれてサッカー部のキーパーを務めた。 この時期、大工の父親が日活系映画館の社長から招待券をもらうようになったため、それを使って映画館に通い始める。スクリーンに見入る日々が続いた。 ただし、俳優を目指したのはまだ先のこと。愛知県立豊橋工業高校(現・愛知県立豊橋工科高等学校)を中退後、名古屋市の寿司店で働き始めた。寿司職人は憧れの職業だった。 心境が変化したのは石原裕次郎さん主演の映画『太平洋ひとりぼっち』(1963年)を見たから。太平洋をヨットで単独横断する主人公の青年に惹かれた。健さんも冒険心を掻き立てられ、俳優を目指して上京する。1970年、まだ16歳だった。 週刊誌で裕次郎さんの住所を知り、東京・成城の自宅を訪ねた。個人情報という感覚が存在しなかった時代である。その場で石原プロモーション入りを申し込んだ。ツテはなかった。おそろしいまでの行動力である。 だが、断られた。健さんに見込みがなかったからではなく、当時の石原プロは映画制作が順調ではなかったこともあり、新人俳優を採っていなかったのだ。 それでも健さんはひるまなかった。自分で見つけた俳優養成所に入り、次に中堅の劇団フジに入団する。やがてドラマにも出るようになった。うち1本が憧れの裕次郎さんが主演していた刑事ドラマ『太陽にほえろ!』(日本テレビ)である。

勝新太郎との出会い

1972年7月に始まったこのドラマに健さんが出演したのは1974年2月の第81回。当然のように犯人役だったが、目立った。 直後、TBSの特撮ドラマ『ウルトラマンタロウ』(1973年)のタロウ役の選考にも最後まで残ったものの、これは落ちた。合格したのは二枚目俳優として鳴らした篠田三郎(75)である。 しかし、落ちて良かったのだろう。20歳だった1974年、大きな転機が訪れた。劇団フジの主演舞台の脚本を書いていた作家が、勝新太郎さんの主演映画『座頭市御用旅』(1972年)の脚本も手掛けていた縁で、勝プロダクションのプロデューサーが舞台を見に来た。 プロデューサーは健さんの演技に惹かれたらしく、「勝に会ってみないか」と誘った。くしくも裕次郎さんと勝さんは親友である。 勝さんと健さんが会ったのはフジテレビの控室。勝さんは健さんを見つめた後、唐突に「お前、京都に来られるか」と言った。健さんは「はい」と答えるしかない。勝さんは美顔で身長が179センチもある健さんに将来性を見出したらしい。一方で健さんは京都に行く意味が分からなかった。 それでも言われるままに京都・太秦のスタジオに出向いた。すると勝さんはフジ『座頭市物語』(1974年)の撮影を止め、健さんにカメラの前に立つよう命じた。 「俺が言うから芝居してみろ」「ここに何十年ぶりに会うお母さんがいる。顔を上げて『お母さん』って言ってみろ」。いきなりのカメラテストである。勝さんは思いつきで行動する人で、若手俳優や若手記者を困らせるのも好きだった。  テストが終わると、勝さんが言った。「しばらく俺の横で見てろ」。勝さんの演技を見て勉強するように命じたのである。健さんは京都に来たら役がもらえるのではないかという淡い期待も抱いていたが、見込み違いだった。来る日も来る日も勝さんの演技を見るだけの日々が続いた。
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「主役以外やったらダメだ」
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放送コラムニスト/ジャーナリスト 1964年生まれ。スポーツニッポン新聞の文化部専門委員(放送記者クラブ)、「サンデー毎日」編集次長などを経て2019年に独立。放送批評誌「GALAC」前編集委員

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