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『おむすび』で一人気を吐く松平健(70)。知られざる“山あり谷あり”の俳優人生

「主役以外やったらダメだ」

ようやく『座頭市物語』にゲスト出演したのは数カ月が過ぎてから。1975年放送の第23回である。演じたのは庄屋の息子役で、浅丘ルリ子(84)演じた三味線弾きと駆け落ちするという設定だった。 勝さんは勉強を積ませた健さんに大女優との共演を用意した。心憎い配慮である。あまり知られていないが、浅丘は健さんが石原プロに入社を希望した1970年には同社に所属していた。 翌1976年4月からは初主演作を得た。巨匠・五味川純平さんが戦時下の人間を描いたフジ『人間の條件』である。1959年に公開された映画版で仲代達也(91)が演じた梶役だ。 ドラマ版のチーフ監督は元日活の沢田幸弘さん。『太陽にほえろ!』に健さんが出演したときの監督で、裕次郎さんと親しかった。健さんは不思議と裕次郎さん、勝さんとの縁が濃かった。 しかし、ドラマ版『人間の條件』はあまり当たらなかった。放送時間帯は平日午後1時半から。昼メロの時間帯だ。硬派作品としてスタートしたものの、途中から徐々に梶の妻・美千子(堀越陽子)の視点が増え、昼メロ色が出てきてしまい、テーマが曖昧になってしまったからである。 以後の健さんは仕事のない時期がない日々が続く。勝さんから「主役以外やったらダメだ」と命じられたからである。もどかしかったのではないか。もっとも、仕事はなくても給料はもらえた。お陰で悠々と生活することができた。気っぷがいい勝さんらしいが、一方で勝プロが巨額の負債を抱えて1981年に倒産したのもうなずける。

『暴れん坊将軍』での成功

『人間の條件』から約1年半が過ぎた1978年1月、『吉宗評判記 暴れん坊将軍』(テレビ朝日)の主演に抜擢された。新鮮さも買われた。勝さんの教えを守り、助演を避けてきたことが功を奏したのである。まだ24歳だった。以後、この作品は2003年4月まで約25年も続いた。 『暴れん坊将軍』の放送中、健さんは安泰だったと思われている。実際には違う。1980年11月から半年間にわたって同じテレ朝で放送された主演刑事ドラマ『走れ!熱血刑事』が見事にコケた。月曜午後8時台の放送だったにもかかわらず、6~7%の世帯視聴率しか獲れなかった。 健さんが演じた主人公は山本大介。10代のころは極悪の不良だったが、人情刑事に諭されて更正し、刑事になった。だから非行に走る10代を放っておけない。 今、振り返ってみても当たりそうもないストーリーである。『暴れん坊将軍』が成功していた健さんなのだから断ってもよかった気がするが、そうは出来ない事情があった。制作が勝プロだったのである。同時期、勝プロは別の刑事ドラマも撮っていた。勝さん主演の日本テレビ『警視-K』(1980年10月)だ。全編ほぼアドリブ。マイクで雑音も拾うという画期的なドラマだったが、斬新すぎて平均世帯視聴率は5・4%。半年間放送の予定だったものの、1クールで打ち切られた。勝プロにとって刑事ドラマは鬼門だったらしい。 それから24年後、健さんは『暴れん坊将軍』が終わってから1年半後となる2004年の大晦日、『NHK紅白歌合戦』に『マツケンサンバⅡ』で初出場する。切れ目なくスポットライトを浴びていたから、やはり恵まれていたように思われるが、これも違った。 1992年にリリースした『マツケンサンバⅠ』はほとんど話題にならず、1994年に出した『マツケンサンバⅡ』も大手レコード会社はCD化を引き受けてくれなかった。売れないと思われていたのだ。このため、自主制作盤の形態となり、健さんの舞台の会場で売られただけだった。 『マツケンサンバⅡ』の人気にようやく火が付いたのは2003年ごろ。制作から約10年が過ぎていた。メジャーな音楽番組などで紹介されたからではない。ラジオの深夜放送で流されたことをきっかけだった。 劇場関係者によると「健さんは誰にでも気を使う人」だという。人知れず苦労をしてきたせいでもあるだろう。<文/高堀冬彦> 参考文献 読売新聞 東京朝刊 2024年5月17日、同24日、同31日付 朝日新聞 東京夕刊 2013年7月26日付 NHKドラマ・ガイド『おむすび』Part1(NHK出版)
放送コラムニスト/ジャーナリスト 1964年生まれ。スポーツニッポン新聞の文化部専門委員(放送記者クラブ)、「サンデー毎日」編集次長などを経て2019年に独立。放送批評誌「GALAC」前編集委員
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