“プロレス動画世代”は大巨人アンドレを勉強しなさい――「フミ斎藤のプロレス講座」第24回
―[フミ斎藤のプロレス講座]―
キミはアンドレ・ザ・ジャイアントを知っているか――? 日本では“大巨人”のニックネームで、アメリカやヨーロッパでは“世界の七不思議”よりももっと不思議な“世界の8番めの不思議The Eighth Wonder of the World”として一世を風びしたアンドレが46歳の若さで突然、この世を去ったのはいまから22年まえの1993年(平成5年)1月27日。父ボリス・ロシモフさんの葬儀に参列するためフランスに帰国中、心臓発作で帰らぬ人となった。
1946年5月19日、フランスのグルノーブル生まれ。本名アンドレ・ルネ・ロシモフ。1964年、パリで“ザ・ブッチャー”ロシモフのリングネームでデビュー。デビュー当時は身長6フィート7インチ(約2メートル)、体重245ポンド(約111キロ)だったが、アクロメガリー(巨人症・先端巨大症)という先天性の成長ホルモン過分泌の疾患のため、食事と運動量には関係なく成人後も身長、体重が増加しつづけた。公式プロフィル上の身長は7フィート4インチ(約223センチ)で、体重は445ポンド(約202キロ)に“統一”されていたが、30代後半から40代前半にかけては体重が500ポンド(約227キロ)くらいまで肥大化していた。
1970年(昭和45年)1月にモンスター・ロシモフのリングネームで国際プロレスに初来日したときが23歳で、最後の来日となった1992年(平成4年)12月に全日本プロレスの『92世界最強タッグ』(タッグ・パートナーはジャイアント馬場)に出場したときは46歳。現役選手としては全盛期にあたる1974年(昭和49年)から1986年(昭和61年)までの約12年間は新日本プロレスの看板外国人選手として活躍し、アントニオ猪木、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガンらとプロレス史に残る数かずの名勝負を残した。
70年にフランスからカナダのモントリオール(フランス語圏)に移住したアンドレは、72年12月にビンス・マクマホン・シニア(現在のビンス・マクマホンの父親)とマネジメント契約を交わし、73年3月、アンドレ・ザ・ジャイアントの新リングネームでニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデン定期戦で再デビュー。その後、マクマホン・シニアのブッキングで年間スケジュールのほとんどを全米各地のNWAテリトリーやAWAのビッグマッチ、カナダ、メキシコ、日本、オーストラリアなどの“世界ツアー”に費やすようになった。
マクマホン・シニアはアンドレをアメリカ東海岸のWWWFエリア(現在のWWE)には定住させず、“親善大使”的なポジションで世界じゅうをツアーさせる方法をとった。それはアンドレのような“特別な存在”がずっと同じ場所に長くとどまっていると観客動員力、商品価値、話題性が落ちてしまうという“弱点”をマクマホン・シニアがよくわかっていたからだった。アメリカ、カナダのローカル団体ではアンドレがゲスト出場するハウスショー興行が“史上最大のスーパーイベント”に化けた。
アンドレが新日本プロレスをホームリング(のひとつ)としていたのは70年代前半から80年代にかけてだから、その活躍をリアルタイムで目撃したのはいま40代、50代からそのまた上の世代のプロレスファンということになる。アラサー、アラフォー世代は“現実”としてのアンドレを知らないし、現在進行形のWWEユニバースにとってはアンドレはあくまでも“伝説のレスラー”であり“WWEホール・オブ・フェーマー”である。
じっさいのタイムラインで検証してみると、日本でアンドレ対猪木の最後のシングルマッチがおこなわれたのは『86IWGPリーグ戦』公式戦(86年6月17日=名古屋)で、アメリカでアンドレ対ホーガンの“世紀の一戦”が実現したのはその翌年に開催された『レッスルマニア3』(87年3月29日=デトロイト)。『86IWGPリーグ戦』ではいまもマニアのあいだで語り草となっている前田日明の“疑惑のシュート・マッチ事件”があった(86年4月29日=三重県津市)。アンドレ自身はその後、アメリカ国内での試合数を減らし、現役生活の最後の3年間となる90年(平成2年)から92年まではセミ・レギュラーとして全日本プロレスのリングに上がり、馬場との“熟年巨人コンビ”で3年連続で『世界最強タッグ』に出場した。
グーグルで“アンドレ・ザ・ジャイアント”“Andre The Giant”を検索すると約31,800,000件(0.45秒)の情報、ユーチューブでは約133,000件の映像が検索結果として出てくる。ユーチューブにアップされている映像の“出典”はじつにさまざまで、モンスター・ロシモフ時代(国際プロレス)の試合映像もあれば、70年代、80年代のWWE以外のテリトリーでの試合(ドイツでのオットー・ワンツとのシングルマッチ、メキシコでのカネックとのシングルマッチ、ロサンゼルスでのバトルロイヤル、アトランタでのハンディキャップ戦など)、テレビのドキュメンタリー番組、全日本での試合映像などがかんたんに発見できる。
もちろん、WWEネットワーク――現時点では日本国内からはサインアップできないが――にはWWEオフィシャルの試合映像がたくさんアップされている。“若き女帝”ステファニー・マクマホンの少女時代のヒーローは、たまにコネティカットの実家=マクマホン家に遊びにきてくれるアンドレだったという。新日本プロレスワールドNJPW WORLDにもバージョンのちがういくつかのアンドレ対猪木(74年、76年、85年、86年)、アンドレ対ハンセン(79年。81年)、アンドレ対ホーガン(83年)、アンドレ対長州(84年)などがアップされている。
アメリカの古い試合映像を観ると、アンドレが演じているのは“心やさしい巨人”的なベビーフェースだが、新日本プロレスのリングで猪木と闘っているときのアンドレは明らかに“モンスター・ヒール”だ。70年代の試合では、アンドレがカナディアン・バックブリーカーの体勢で猪木を持ちあげると、猪木がこれを空中で切り返してアンドレの超巨体をリバース・スープレックスで後方に投げ飛ばすという定番シーンがある。“怪物”アンドレがTPOによってベビーフェース的なキャラクターとヒール的なキャラクターを巧みに使い分けていたという史実もおもしろいが、アンドレというレスラーが――単なる怪物ではなくて――じつはレスリングもうまかったという事実にも新鮮な驚きがある。
アンドレの生涯最後の試合は、全日本プロレスの『92世界最強タッグ』最終戦(92年12月4日=日本武道館)での馬場&アンドレ&ラッシャー木村対大熊元司&永源遙&渕正信の6人タッグマッチだった(アンドレが大熊をフォール)。全日本プロレスでのアンドレは“馬場さんの友人”という役回りで、この日、アンドレは試合中にリング上でパートナーの木村と仲よくダンスを踊った。
70年代のアンドレのトレードマークはロングのカーリーヘアと赤のショートタイツと赤のリングシューズ。80年代になると髪がショートになって、晩年はリングコスチュームが黒のターザン・タイツに変わった。アンドレの試合映像をたんねんにチェックしていくと70年代、80年代の地方分権テリトリー時代のアメリカのプロレスのことがよくわかるし、“1984体制”のビフォアとアフターのWWWF/WWF/WWEについて学ぶことができる。また、アンドレのリング上の動きをひとつのフィルターとして70年代、80年代の“アントニオ猪木”、90年代前半の“ジャイアント馬場”と“全日本プロレス”を再検証することもできる。
プロレスはアメリカでも日本でも“動画”の時代。ティーンエイジのWWEユニバースも、20代のいまどきのネットユーザー層も、アラサーもアラフォーも、そして中年のプロレスファンも“プロレス動画世代”はアンドレを勉強しなさい――。
文責/斎藤文彦 イラスト/おはつ
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