日本人初のプロレス世界チャンピオンもまた行方不明者だった
―[フミ斎藤のプロレス講座]―
明治時代の終わりから大正時代――1900年代から1920年代――にかけてアメリカで活躍した日本人プロレスラーの代表は、日本人として初めて“世界チャンピオン”の称号を与えられたマティ・マツダである。
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本名は松田万次郎(まつだ・まんじろう)。1879年(明治12年)、熊本県八代郡文政村(現・八代市)の農家の出身。少年時代から体が大きく、運動万能だったというが、17歳のときに行方不明となり、それから約10年後にいきなりアメリカから家族のもとに手紙が届き、海の向こうでプロレスラーとして活躍していることがわかったのだという。
マツダがどういった経緯でアメリカへ渡り、いつごろどこでだれのコーチを受けてプロレスラーとなり、その後、どのようなキャリアを積んで世界ジュニア・ウェルター級チャンピオンの座にたどり着いたかについては残念ながら不明な点が多い。
マツダが日本を離れたのが1896年(明治29年)で、マツダ自身からの書簡によりアメリカでプロレスラーになっていたことが判明したのは1906年(明治39年)。1920年(大正9年)ごろからテキサス州エルパソに在住し、アメリカ人女性と結婚。
1929年(昭和4年)8月14日、試合での負傷が原因で、ミシガン州バトルクリークの病院で死去。現役選手のままこの世を去った。享年50。日本に戻ってきたのはひと握りの遺骨とほんの少しの遺品だけだったとされる。
ひとつの仮説として、渡米から3年後の1899年(明治32年)ごろに20歳でデビューしたとすると、その現役生活は30年。かなり息の長いプロレスラーだったことになる。
アメリカの文献にマティ・マツダMatty Matsudaの名が発見できるのは1905年(明治38年)あたりからで、同年から1909年(明治42年)にかけての4年間はどうやらカナダのバンクーバーに滞在。1910年(明治43年)2月にはオレゴン州ポートランドで、1911年(明治44年)2月にはミセソタ州セントポールで試合をしたという記録が残っている。
“穴ぼこ”だらけのパズルのかけらを組み合わせていくと、1912年(大正元年)4月から1920年(大正9年)5月まではコロンバス、トレド、デラウェア、アクロンといったオハイオ州内の各都市での試合結果が散見できる。
マツダの有名なチャンピオンベルト姿のポートレートの右下コーナーには“1921”と記されているが、この写真が世界ジュニア・ウェルター級王座獲得直後のものだとするとチャンピオンになったのは42歳のときだったことになる。
『エルパソ・ヘラルド』紙(1920年5月25日付)によれば、ジュニア・ウェルター級の契約体重は158ポンド(約72キロ)。文献によっては、マツダを世界ウェルター級王者、あるいは世界ライト級王者と表記しているものもある。
現地発行の邦字新聞は“エルパソ マテー松田の死”と題し、「ウェルターウエートレスリング世界選手権を所有する同胞唯一の松田君は、14日の朝6時半にミシガン州のボットルクリーキで客死したとの報がエルパソ市に報ぜらるるや、当市の運動界はもちろん一般のファンははなはだしく彼の死を惜しみ(中略)。約2か月前にシンシナティ市でジャッキ・レナウド氏との大試合で長年わずかの傷害を有したヒザ関節に激痛をおぼえたのでボットルクリーキの病院に入院――」とマツダの訃報を報じた。
対戦相手の“ジャッキー・レナウド”とは、世界ウェルター級王座を通算9回保持した名選手、ジャック・レイノルズを指しているものと思われる。“大試合”とはタイトルマッチのことだろう。死因については骨髄炎と肺結核のふたつの説がある。シンシナティでの試合の対戦相手についてはレイノルズではなく、バサンタ・シンという選手だったとする文献もある。
現存しているごくわずかな資料には“シーズンズ・グリーティングス”と記されたクリスマス・カード、スーツ姿のマツダがプロボクシング世界ヘビー級王者ジャック・デンプシーと肩を並べて記念撮影におさまっているポートレート、柔道着を着たマツダが柔道ジャケット・マッチのデモンストレーションをおこなっている写真などがある。
クリスマス・カードには富士山と柳と太陽(日の丸のイメージか)のイラストが描かれ、左側にはタキシードを着てステッキを手にしたマツダ、右側にはチャンピオンベルトを腰に巻いたロングタイツ姿のマツダの写真がコラージュされている。
“マティ・マツダMatty Matsuda”の名のすぐ下には“ワールズ・ジュニア・ウェルターウエート・チャンピオン・レスラーWorld’s Junior Welterweight Champion Wrestler”というキャプションがあるから、マツダが保持したタイトルは、正確には世界ジュニアウェルター級王座なのだろう。
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ジャック・デンプシーは「大統領の名を知らなくてもデンプシーの名を知らぬ者はいない」といわれたこの時代のスーパースターのなかのスーパースターで、当時のアメリカのプロレス界におけるマツダのステータスの高さをうかがわせる写真といっていい。
柔道ジャケット・マッチのデモンストレーションでマツダが一本背負いをかけている日本人は、マツダと同じ時代を生きた柔道家・プロレスラーのタロー三宅(本名・三宅多留次)だ。
三宅は1881年(明治14年)、岡山の生まれ。大阪天王寺中学、同師範学校時代に不遷流柔術を学び、神戸警察署の柔道教師を経て、1904年(明治37年)、23歳で柔道の指導員としてフランスに渡った。その後、イギリスに在住し、レスリングを身につけ、ヨーロッパ・マットを経由して第一次世界大戦直前にアメリカに移り住み、日本人レスラーの草分けのひとりとなった。
このタロー三宅も――アメリカでプロレスラーになった浜田庄吉が明治20年(1887年)に“欧米大相撲”としてプロレス&ボクシングの興行を日本に持ち込んだのと同じように――1928年(昭和3年)10月、アスバードル(アメリカ)、ベルソート(カナダ)、ベルダラメン(イギリス)の3人の外国人レスラーを帯同し、プレーイング・マネジャーとして帰国した。
日本に伝わったカタカナ表記ではメケ・ミヤケ(マイクMikeのローマ字読みによる誤訳か)、在外邦人のあいだでは本名・多留次をもじったタロー三宅で通っていた。
このときに“大日本レッスリング普及会”なる組織が発足し、当時の新聞は柔道家から“レッスリング家”に転向した三宅を“三宅六段”として紹介。身長170センチ、体重180ポンド(約82キロ)の小柄な体で、相手の手首をつかんで投げる大技“三宅投げ”を得意としていると報じた。
この“大日本レッスリング普及会”に協力した大相撲・出羽ノ海一門の年寄・千賀ノ浦(元関脇・綾川五郎次)は、引退したばかりのふたりの弟子たち、元幕下の鬨の川(ときのがわ)と若響(わかひびき)を――マゲを残したまま――プロレスに転向させた。
日本人(三宅を含め3人)対外国人の国際試合「日米英レッスリング競技大会」の第1回大会は10月、神宮外苑相撲場(現在の神宮第2球場)、2日めは日比谷公会堂、3日めは静岡の若竹座という芝居小屋でおこなわれ、その後は沼津、浜松、名古屋、大阪、和歌山と移動。しかし、お客さんの入りが悪く、興行的には失敗だったという。
文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
※「フミ斎藤のプロレス講座」第54回
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