明治16年に渡米。“日本最古のプロレスラー”ソラキチ・マツダは蒸発した相撲取りだった
―[フミ斎藤のプロレス講座]―
文献に残されている“最古の日本人プロレスラー”は、明治時代にアメリカへ渡り、1880年代にプロレスリングのパイオニアのひとりとして活躍したソラキチ・マツダ Sorakichi Matsudaである。
日本人レスラー――お相撲さん――が外国人レスラーと最初に試合をしたのはいまから160年ほどまえの1853年(嘉永6年)から安政元年(1854年)ごろといわれている。アメリカのマシュー・ペリー海軍提督による“黒船来たる”の時代である。
幕末には横浜を舞台に力士対レスラーの“異種格闘技戦”のようなものがしばしばおこなわれ、その様子が数かずの錦絵として残されている。日本におけるプロレスのルーツはこのあたりなのだろう。
マツダは1862年(文久2年)、福井県出身。本名は松田幸次郎。東京相撲・伊勢ヶ濱部屋で両國梶之助の弟子として荒竹寅吉の四股名(序二段)で相撲をとっていたが、1883年(明治16年)に巡業中の横浜から“蒸発”し、アメリカに渡った。マツダをスカウトしたのはアメリカ人のサーカス・プロモーター、フィル・H・カービーという人物だったとされる。
マツダがプロレスラーとしてデビューしたのは――これについては諸説があるが――1884年(明治17年)1月14日。ニューヨークのアービン・ホールでイギリス・ミドル級王者エドウィン・ビビーと500ドルを賭けた賞金マッチ(3本勝負)で対戦し、2-0のスコアで敗れた。
それから2カ月後(同3月10日)、ニューヨークのクラレンドン・ホールでおこなわれた再戦(5本勝負)では、こんどはマツダが3-0のストレートで完勝した。第1戦はグレコローマン・スタイルのレスリング・マッチで、第2戦はマツダのマネジャーが要求した“相撲ルール”だった。
『サンフランシスコ・クロニクル』紙に掲載されたこの第2戦に関する特集記事は日本語に翻訳され、『開花新聞』(明治17年4月24日付)で大々的に報道された。ニューヨークでのできごとがサンフランシスコを経由して、約6週間後に日本にたどり着いた。
同新聞はこの試合をマツダの現地でのデビュー戦と報じたが、現在までの研究でいちばん有力な説とされているデビュー戦は、前出の同年1月14日のE・ビビーとの最初の試合で、3月10日のビビーとの再戦のまえにもほかに数試合おこなっていた可能性もある。
マツダはデビューから半年後の同年7月(シカゴ)、アメリカの最初の職業レスラーで“プロレスの父”として知られるウィリアム・マルドゥーンとも対戦しているから、プロレスラーとしての“番付”――いろいろな意味での実力――はまちがいなく世界ランカーだった。
『サンフランシスコ・クロニクル』紙の記事には「マツダは両ヒザを広く開け、足をフロアにスタンプさせ、首を低くし、そして突然、頭から相手に向かって突進した」という記述がある。
相撲スタイルで四股を踏み、蹲踞(そんきょ)の姿勢から仕切りに入り、下からの“かちあげ”をぶちかましたということなのだろう。アメリカ人レスラーたちは、マツダの“立ち上がり”を危険なヘッドバットとして嫌がったという。
リングネームのソラキチ・マツダは、本名の松田と相撲時代の四股名・荒竹寅吉の寅吉とをミックスしたものとだった、寅吉がどうやってソラキチSorakichiになったか、あるいは“変換”されたかについてはさまざまな仮説がある。
単純にマツダの英語の発音が悪かったからという説もあるし、マツダの前歯が折れていたため口から空気がもれてトラキチの“ト”がソラキチの“ソ”に変音したとする説もある。マツダMatsudaのスペルも、文献によってはMatsadaやMatusdaになっていたりする。
アメリカの資料によれば、身長5フィート7インチ(約170センチ)、体重175ポンド(約79キロ)。アメリカのリングに登場した時点ではまだマゲを結っていた。
マツダの姿かたちを現代に伝える数少ない資料のひとつとして、1884年(明治17年)6月に出版された『角觝秘事解』(松木平吉・編)という相撲の解説書に載った有名な肖像画がある。
イラストの右上には“松田幸次郎事 荒竹寅吉”というタイトル、右下には“米国渡来写真ヲ図ス 井上探景筆”なる画家のクレジットが記されている。
同書はマツダのアメリカでの活躍をくわしく紹介しているが、そのプロフィルについては「序二段の小力士にして越前の産、力量はすぐれしが、まだろくにケイコも積まず、角力の手さえも知らぬものなり」とかなり辛口な論評になっている。
“米国渡来写真”のオリジナルはマツダがアメリカに渡った1883年に『ザ・ナショナル・ポリス・ガゼット』紙に掲載されたポートレートで、この写真はその後、アメリカ国内でパブリシティー用のブロマイドとして複写されたり、ほかの出版物に転載されたりして、結果的に130年もの歳月を生き延びてきた。
『ザ・ナショナル・ポリス・ガゼットThe National Police Gazette』(以下『ガゼット』紙)を直訳すると“国立警察官報”となるが、公的機関が発行していた新聞ではなくて、どちらかといえばタブロイド新聞、男性誌のはしりとでもいうべきトラッシュ・ペーパーのたぐいだった。
『ガゼット』紙は1845年、ジャーナリストのジョージ・ウィルキスとウィルキスのパートナーで弁護士のイノック・キャンプの両氏が創刊した週刊新聞で、殺人や銀行強盗などの事件を連続小説風につづった記事、凶悪犯罪の犯人や容疑者の顔写真と経歴を掲載する告知ページ、“交際相手募集”“売ります・買います”といった読者欄を売りものに1850年代には発行部数を公称4万部まで伸ばした。
『ガゼット』紙が大衆ジャーナリズムとして大きな力を発揮するようになったのは、リチャード・カイル・フォックスという人物が前オーナー・グループから同社の株式を買い上げた1877年以降だった。
フォックスは理髪店、ドラッグストア、サロン(喫茶店、ゲーム場、討論の場)、ホテル・チェーンとの定期購読契約=速達郵便による配達というまったく新しい流通システムを用い、男性読者層が集まりそうなアメリカじゅうの社交の場に同紙を届けた。
フォックスはその後、1879年に『ガゼット』紙編集部内にアメリカのジャーナリズムとしてはおそらく初のスポーツ専門部を立ち上げ、これと同時にプロモーターあるいは“賞金マッチ”のスポンサー的立場でプロレスやプロボクシングの興行にかかわるようになった。
このとき、フォックスのビジネス・パートナーとして『ガゼット』紙の経営に出資していたのは、ほかでもない“プロレスの父”ウィリアム・マルドゥーンだった。(つづく)
文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
※「フミ斎藤のプロレス講座」第51回
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