更新日:2017年11月16日 18:57
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“最古の日本人プロレスラー”は活字プロレスで全米にその名をとどろかせた

Sorakichi Matusda Allen & Ginter's cigarettes card

アレン&ジンター・タバコ・カンパニーが1887年(明治20年)に発行したトレーディ ング・カードの第1作“ワールズ・チャンピオンズ”に収録されたソラキチ・マツダ の肖像画。“日本最古のプロレスラー”マツダは、トレカに登場するほどメジャーな スーパースターだったのだ。

 “最古の日本人プロレスラー”ソラキチ・マツダの物語(後編)。1880年代に全米をツアーした松田寅吉Sorakichi Matsudaとはいったいどんな男だったのか――?  文献に残されている最古の日本人プロレスラーは、1880年代にアメリカで活躍したソラキチ・マツダである。1862年(文久2年)、福井県出身。本名は松田幸次郎。  東京相撲・伊勢ヶ濱部屋で両國梶之助の弟子として荒竹寅吉の四股名(序二段)で――相撲時代の下の名は本名の“幸次郎”または“光二郎で、“寅吉”は名乗っていなかったという説もある――相撲をとっていたが、1883年(明治16年)に巡業先の横浜から“蒸発”し、アメリカに渡った。マツダをスカウトしたのはアメリカ人のサーカス・プロモーター、フィル・H・カービーという人物だったとされる。  これまでのリサーチでは、リングネームのソラキチ・マツダは本名の松田と相撲時代の四股名・荒竹寅吉の寅吉とをミックスしたものとされてきたが、最近の研究では、トラキチなるファーストネームはマツダ自身が名乗ったものではなく、アメリカのプロモーターによるネーミングで、幕末から明治初期にかけてアメリカ各地を巡業した日本のサーカス一座“トラキチ”からアダプトしたものとする説もある。  いずれにしても、寅吉がどうやってソラキチSorakichiというスペルになったかについては諸説があり、単純にマツダの英語の発音が悪かったからとする説、マツダの前歯が折れていたため口から空気がもれてトラキチの“ト”“T”がソラキチの“ソ”“S”に変音したなどさまざまな説がある。  マツダのニューヨークでのデビュー戦の模様を報じた『サンフランシスコ・クロニクル』新聞(1884年=明治17年1月15日付)によれば「身長5フィート7インチ(約170センチ)、体重175ポンド(約79キロ)」。アメリカのリングに登場した時点ではまだマゲを結っていた。  同記事には「広い胸、たくましい両腕と肩、細いウエスト、太い大腿部、目立って突起したふくらはぎ、細い足首、極端にちいさな足」とマツダの体つきをていねいに描写した記述がある。  マツダのレスリングは――お相撲さんがいきなりリングに上がったのだからあたりまえといえばあたりまえのことではあるが――いわゆる相撲のそれで、ぶちかまし(頭突き)、かちあげ、押し、突き、突っ張り、相手の腕やヒジを抱え込んでの投げ技を得意としていたという。  言語とコミュニケーションの壁といってしまえばそれまでのことかもしれないが、デビュー当時、マツダは、レスリングの試合も相撲と同じように、対戦相手をリングの外に押し出す、リングの周囲にロープが張られている場合は対戦相手の体をロープに接触させる“寄り切り”や“押し出し”のような形で勝負が決まるものと理解していたようだ。  相撲とグレコローマンは、基本的にはどちらもスタンディング・ポジションで体を密着して闘うレスリングであるため、相撲スタイルを貫くマツダは、腰から上しか攻撃できない(攻撃されない)グレコローマン・スタイルとは相性がよかったが、腰から下への攻撃が認められグラウンドでの攻防も含まれるキャッチ・アズ・キャッチ・キャンは苦手だった。  当時のグレコローマンは“足の裏”と“手”以外の部分がマットについた時点で負けというルールだったが、マツダはグレコローマン・ルールの試合でも「土俵に手がついたら負け」とする相撲ルールの適用を主張したという。  ニューヨークを主戦場にレスリング・ビジネスのメインストリートをのし歩くようになったマツダは、アメリカにおける最初の職業レスラーとして高名な“プロレスの父”ウィリアム・マルドゥーンと合計8回対戦し、2勝5敗2引き分けの戦績を残した。  デビューから半年後にシカゴで実現した初対決(1884年7月18日)は、相撲ルール2本、グレコローマン・ルール2本、それでも勝敗が決まらない場合はさらにキャッチ・アズ・キャッチ・キャン・ルール1本という変則5本勝負でおこなわれた。  マルドゥーン・サイドはマツダのかちあげ、頭突きを“反則”とすることを対戦の条件として提示したが、プロモーターのリチャード・K・フォックスはあくまでもグレコローマン・ルールと相撲ルールの併用案を譲らなかった。  ファイトマネー各500ドル、サイド・ベット(賭け金)500ドルの賞金マッチは、プロレスラー対相撲レスラーの異種格闘技戦――あるいは現在のMMA(総合格闘技)――のような試合だったといわれている。この試合はマルドゥーンの勝利に終わったが、残念ながら、試合結果以外の詳細を記す文献は発見されていない。  翌1885年(明治18年)4月にニューヨークでおこなわれた2度めの対戦――制限時間1時間以内にマルドゥーンが合計5回、マツダに“投げ”を決めなければマツダの勝ちというハンディキャップ・ルール――では、マツダが“粘り腰”でかろうじて勝利を収めた。  1887年(明治20年)5月から同年10月までの6カ月間には、全米を舞台にマルドゥーンとマツダがたてつづけに4回対戦したという記録が残っている。19世紀末にも“ドル箱カード”というコンセプトはあったのだろう。
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『ガゼット』紙に掲載されたマツダとアーネスト・ローバーのパブリシティ・フォト (1886年ごろ撮影か)。写真の下のキャプションには“ローバーとジャップ”という 文字。マツダのニックネームはそのものずばり“ジャップ”だった。

 “プロレスの父”マルドゥーンは警察官からプロレスラーに転向した人物――のちにニューヨーク州体育協会の初代コミッショナーに就任――で、現役選手として活動するかたわら、前出のR・K・フォックスとともに大衆紙『ザ・ナショナル・ポリス・ガゼット』(以下『ガゼット』紙)の経営にも参画した。  “バーバーズ・バイブル”(理髪店の聖書)と呼ばれた『ガゼット』紙は、1880年代には発行部数を公称40万部まで伸ばしたとされるが、アメリカじゅうの理髪店、サロン(喫茶店、談話室、ゲーム場などを設備した男性の社交場)、ドラッグストアのカウンター、ホテルのロビーなどで同紙を手にとった読者の実数はその10倍以上にはなるだろうといわれている。  マルドゥーンとそのライバルたちによるプロレス黎明期の名勝負の数かずは『ガゼット』紙によって活字となり、マルドゥーンの名声は“サロン談義”とそこから再生産される口コミによってアメリカじゅうに拡散された。  マツダもまた同紙のスポーツ記事の登場人物として“活字プロレス”によって全米にその名をとどろかせた。テレビもビデオも、もちろんネットもなかった時代にすでに“活字プロレス”は存在していた。  ニューヨークでのデビュー戦から1年後の1885年(明治18年)2月、マツダはフィラデルフィアでアメリカ人女性、エルラ・ボンソール・ロッヂさんと結婚し、このニュースが“渡米力士米国で米婦人と結婚す”として『東京横浜毎日新聞』『東京絵入新聞』などに報じられた。  このとき、イラストで描かれたマツダは口ひげをたくわえ、かなりアメリカナイズされたビジュアルに変身していた。  マツダ――ニックネームはそのものずばり“ザ・ジャップ”――とエルラ夫人の結婚生活については『ガゼット』紙でもたびたび取り上げられたが、“サロン談義”のネタとして男性読者を喜ばせたのは、マツダの家庭内暴力、エルラ夫人が両親から相続した遺産をマツダがギャンブルで浪費してしまったこと、マツダが愛人(日本人女性)を自宅に同居させているといったスキャンダラスなニュース、ゴシップの数かずだった。  1887年(明治20年)にニューヨークの“アレン&ジンター・タバコ・カンパニー”が発行したトレーディング・カードのファースト・シリーズ“ザ・ワールズ・チャンピオンズ”にはマルドゥーン、ジェームズ・H・マクラフリン、シーバウド・バウワーといった19世紀末のスーパースターたちとともにマツダ・ソラキチMatsada Sorakichi――アメリカの活字メディアはラストネームの“マツダ”とファーストネームの“ソラキチ”をしばしば日本式に表記していた――の肖像画が収録された。  マツダ、は単なるものめずらしい相撲レスラーではなく、1880年代のアメリカのプロレス・シーンを代表するスーパースターのひとりだった。  1884年から(明治17年)から1891年(明治24年)までの約8年間、全米をツアーしたマツダは、“初代・絞め殺し”の異名を持つイバン“ストラングラー”ルイス、“カラー・アンド・エルボーの家元”H・M・ドゥーファー、“アメリカン・キャッチ・アズ・キャッチ・キャン王者”ジョー・アクトン、“ヨーロピアン・グレコローマン王者”カール・エイブス、“ドイツの世界王者”アーネスト・ローバーといったプロレス界のパイオニアたちと対戦した。  初代“絞め殺し”――二代目“絞め殺し”は1920年代のアメリカのプロレス界を牛耳ったエド“ストラングラー”ルイス――として知られるイバン“ストラングラー”ルイスの“絞め殺し”なるニックネームの由来は、マツダとの試合(1886年1月28日=シカゴ)でルイスがチョークホールドを使い、マツダが口から泡を吹いて悶絶したシーンがあまりにも凄惨だったため、という伝説もある。  マツダはその後、アメリカン・スタイルのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン――スタンディングとグラウンドのミックスしたレスリングで、現在のフリースタイルのベースとなったスタイル――を学び、人気プロレスラーに変身したが、1891年(明治24年)8月16日、現役のままニューヨークでウイルス性感染症のため病死した。  生涯最後の試合は同年5月13日、ニューヨーク州トロイでおこなわれたマーティン“ファーマー”バーンズとの一戦(敗退)だった。 “農民バーンズ”ことファーマー・バーンズは、20世紀最初の統一世界ヘビー級王者フランク・ゴッチ――20世紀の“プロレスの神様”カール・ゴッチの“ゴッチ名”の出典――の師匠として知られる人物である。  1862年(文久2年生まれ)という相撲時代のプロフィルが正しければ享年29だが、1859年(安政6年)生まれとするアメリカの資料によれば享年32。マツダの足跡はまだまだ多くのナゾを残している――。
斎藤文彦

斎藤文彦

文/斎藤文彦 イラスト/おはつ ※「フミ斎藤のプロレス講座」第52回 ※斎藤文彦さんへの質問メールは、こちら(https://nikkan-spa.jp/inquiry)に! 件名に「フミ斎藤のプロレス講座」と書いたうえで、お送りください。
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