明治20年、日本で初のプロレス興行を行った男は“日本人ボクサー第1号”だった
―[フミ斎藤のプロレス講座]―
日本で初めてプロレスの興行がおこなわれたのは1887年(明治20年)6月。アメリカから日本に“欧米相撲”を持ち込んだのは浜田庄吉(はまだ・しょうきち)という人物だった。
浜田庄吉に関する資料はひじょうに少ない。
漫画家、力士、雑誌記者、新聞記者、放送作家などを経て相撲評論家、演芸評論家として活躍し、160作品を超す著作を遺した小島貞二(こじま・ていじ=故人)さんが単行本、雑誌の記事のなかで何度か浜田庄吉と浜田がプロデュースした日本初のプロレス興行について書いている。
小島さん(大正8年~平成15年)は、相撲時代の力道山との個人的なつながりからプロレスにも関心を持ち、大須猛三(お相撲さんという意味か)というペンネームで昭和30年代から昭和50年代までプロレスの記事もたくさん執筆した。
浜田庄吉について時間をかけて調査、研究をかさねたジャーナリストは、ぼく(筆者)の知る限り、日本では小島さんだけで、小島さんの文献よりもあとから活字、あるいはネット上の情報となっている浜田庄吉に関する記述は――出典を明らかにしているものもしていないものも含めて――そのほとんどが小島リサーチのコピー・アンド・ペイスト、または“孫引き”と思われる。
小島さんは『日本プロレス風雲録』(ベースボール・マガジン社刊 1957年=昭和32年)、『ザ・格闘技』(朝日ソノラマ刊 1976年=昭和51年)、『力道山以前の力道山たち』(三一書房刊 1983年=昭和58年)という3作の著書のなかで浜田庄吉について記し、大須猛三のペンネームでは『プロレス&ボクシング』(ベースボール・マガジン社)1965年(昭和40年)1月号の巻頭特集“力道山以前の日本のプロレスのすべて”のなかで浜田庄吉のプロレス興行とその顛末を紹介している。
小島さんも小島さん自身のリサーチに改訂作業をほどこしていて、浜田庄吉の“正体”については昭和40年代までは「明治十五年(一八八二年)ごろ、伊勢ケ浜部屋に二人の新弟子が入ってきた。一人は本名松田幸次郎で、四股名を『荒竹寅吉』とつけた。一人は本名浜田庄吉、四股名は『三国山庄吉』とつけた。すぐライバルでトモダチとなった」としていたのに対し、昭和50年代の著作ではこれを以下のように修正している。
《明治十六年二月のはじめ(一月ではない)東京の本場所(一月、本所回向院)を終えた大相撲一行は、恒例により横浜にくり出した。》
《その一行から、二人の下っ端力士が姿を消した。伊勢ケ浜部屋の荒武光二郎(寅吉ではない)と、山響部屋の戸田川庄五郎(本名・浜田庄吉)である。》
《これが幕内や十両力士の脱走なら、新聞も騒いだかもしれないが、無名のふんどしかつぎ。「そのうちに帰ってくるだろう」と、親方はそのまま次の番付に名前をのせて待った。》
《十六年一月番付で、荒竹は序ノ口に名前がのったばかり。十六年五月は、序二段西十四枚目に上る。戸田川は十六年一月、五月ともに序二段で、五月の番付は東二十一枚目にいる。》
《この脱走の裏には、海外渡航の芸人募集があった。ヨコハマ海岸通り十八番館のホテルで、三月中旬にひそかに人選が行われ、上等舞子四人、独楽まわし一人、蝶遣い一人、綱渡り一人、梯子昇り一人に、力士二人が応募し、下旬にはヨコハマ港をあとにしている。その力士二人がつまり彼らだったのである。(原文のまま)》
小島さんは、明治時代の大相撲の番付をていねいに読み込んだのだろう。かんたんにまとめるとこうなる。明治16年(1883年)2月、荒竹光二郎と戸田川庄五郎という序二段のお相撲さんが横浜巡業から脱走した。荒竹はいうまでもなくのちの“最古の日本人レスラー”ソラキチ・マツダで、戸田川が浜田庄吉だ。
マツダと浜田は同年1月の本場所のあとの横浜巡業から脱走し、アメリカに渡った。マツダと浜田を勧誘したのは、アメリカの“サーカス王”P・T・バーナムの特使として日本にやって来たスカウトだった。
大相撲の本場所は当時、現在のような年間6場所制ではなく1月と5月の2場所制。本所回向院(ほんじょ・えこういん)とは、墨田区両国2丁目にある寺で正式名称は諸宗山無縁寺回向院。墨田区本所エリアに所在していたことから本所回向院とも呼ばれ、1781年(天明元年)あたりから勧進相撲の興行がはじまり、これが今日の大相撲の起源となったといわれている。
マツダと浜田を含む10人あるいは15人の日本人の“芸人団”はアメリカに到着後、現地のサーカス団と合流し、サンフランシスコ、シカゴ、ニューオーリンズなどを巡業したとされる。このサーカス団でのツアー活動がしばらくつづいたと考えると、マツダがニューヨークでプロレスラーとしてデビューしたのが日本を離れてから約1年後の1884年(明治17年)1月だったというのもなんとなく説明がつく。
日本人プロレスラー、ソラキチ・マツダのアメリカでの活躍ぶりが日本に伝わってきたのは1884年(明治17年)4月。『開花新聞』(4月24日付)が同年3月10日にニューヨークのクラレンドン・アリーナでおこなわれたマツダ対“英国王者”エドウィン・ビビーの賞金マッチのニュースを報じた。
浜田――アメリカでのリングネームはコラキチ・ハマダ――は、アメリカでプロレスとボクシングの試合に出場した。プロレスラーとしてはマツダにつづく“第2号”。ボクシングの研究では“日本人ボクサー第1号”という位置づけになっている場合もある。ただし、プロレスでもボクシングでもマツダほどの活躍はしていない。
マツダが日本人プロレスラーのパイオニアならば、浜田はいまでいうところのアントレプレナー=起業家としての才能を持っていた。英語を身につけ、ビジネスマンとしての手腕を発揮し、渡米から4年後の1887年(明治20年)春、“欧米大相撲”“西洋角觝”のプロモーターとして外国人のレスラー、ボクサーの一団を率いて日本に戻ってきた。
このとき“欧米大相撲スパーララスラ之図”と題した錦絵が興行の宣伝ポスターとして用いられ、まだなじみの薄かったレスリングとボクシングの試合風景とルールがわかりやすい図解入りで紹介された。
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スパーラはスパーリング(ボクシング)、ラスラはレスラー(レスリング)であることはいうまでもない。錦絵の上部にカタカナで記されていた出場メンバーの名前はじつは“当て馬”で、じっさいにアメリカから来日した顔ぶれはこれとはちょっと異なっていた。イラストのまんなかには通弁人=通訳としてスーツ姿の浜田も描かれていた。
東京での初興行は同年6月、現在の銀座と築地のあいだに位置する木挽町の広場、現在の歌舞伎座があるあたりで開催され、大きなテントを張り、ジンタと呼ばれる客寄せの吹奏楽団が配置され、色とりどりの万国旗を飾った下で試合がおこなわれた。
アメリカから運ばれてきた(と思われる)リングは、3本ロープであったか4本ロープであったかはさだかではないが、テント内のまんなかにセッティングされ、客席はリングサイドだけがイス席で、その後ろはヒナ壇式の桟敷になっていたという。
この“西洋相撲”を生観戦した、有名な随筆家の山本笑月(やまもと・しょうげつ)さんが『明治世相百話』(1936年=昭和11年)という本のなかで「初見参の拳闘と西洋相撲」と題し、日本初のプロレス興行についてこう書いている。
《拳闘が初めて日本へ来たのは明治二十年の春(原文のまま)、レスラー即ち西洋相撲も一種で米国力士の一行十余名、同地で相当叩き上げた日本人の力士浜田常吉(原文のまま)が肝煎りで、力士の大関はウエブスターという図抜けた大男、また常陸山に輪をかけた立派さ。木挽町三丁目の空地(今の歌舞伎座付近)で天幕張りの興行。物珍しさに前景気は素敵。》
《拳闘がスパーラー、相撲がレスラー、土俵はむろん床張りで十畳ばかりの広さ、私は拳闘の方はよく覚えぬが、なにしろ日本での初物、ことも名も知れぬ外人同士の試合、まず判らずじまい。相撲も結局同じことだが、これは両力士が同体に倒れながら上になり下になり、床へ肩を押し付けるのが最後の勝負とあって、双方肩を気にしながら上を下へと揉み合う有様はむしろ柔道式、華々しい日本の相撲を見馴れた目には、ただもぐもぐ埒(らち)の明かぬこと夥(おびただ)しい。》
《やっと相手を取っちめて肩が床につくと審判が呼子の笛、「かたがつく」とはこのことかと見物一同ほっと息。次もまた同じくもぐもぐ、見る方も肩が張って寝ころびたくなる。第一、声援したくとも名は知らず、そのうえ一勝負に二、三十分もかかるので好い加減くさくさ、気の短い東京ッ子には不評判で、私が見た日も桟敷はガラガラ、幾日も打たずに引き揚げた。後にも先にも西洋相撲はこの一回きりだが、拳闘は近来大流行、全く時代が違う。》
山本笑月さんは1873年(明治6年)、東京・深川の生まれだから、14歳のときにこの興行を観て、そのときの思い出を62、63歳になってから綴ったということなのだろう。
記憶があいまいなところもあるだろうし、浜田庄吉のファーストネームが“常吉”になっていたりするが、明治時代の日本人が初めて目にしたレスリングが「華華しい日本の相撲を見馴れた目にはラチがあかぬ」ものであったこと、ピンフォールによる勝敗のつけ方を「『かたがつく』とはこのことか」とおもしろおかしく分析している点はひじょうに興味ぶかい。
木挽町での興行に失敗した浜田は、こんどは大相撲とのコネをうまく利用して相撲とレスリングの合同興行を計画し、大関・剣山(つるぎざん)の一派とのコラボレーションを企画。浜田グループのアメリカ人レスラー、ウエブスターを西洋相撲の大関に仕立てて“内外対抗戦”というわかりやすいコンセプトを打ち出した。
この企画はヒット作となり、6月下旬には木挽町で7日間連続興行、7月上旬には外神田の秋葉ヶ原(あきばがはら=現在の秋葉原)の広場に舞台を移して7日間連続興行を開催。相撲との合同興行に自信をもった浜田はその後、大阪相撲や京都相撲とのコラボ企画を推し進め、“欧米大相撲”の一団は関西エリアを長期巡業した。
滋賀県大津市の天孫神社境内での10月の興行では、神社の境内にめずらしい“板番付”(木のトビラに筆で番付を記帳したもの)が奉納され、西の大関ウエブズター、関脇コールスン、小結ジョンスエネなど全13人の外国人力士の名が番付に残された。
同年、夏から秋にかけて大阪、京都、四国・徳島まで足を伸ばし地方巡業を経験したアメリカ人レスラーたちは日本の相撲にすっかり慣れ、このころになると日本人力士を相手に“初っ切り”的な相撲をとる選手たちもいたという。
日本に長期滞在した元水夫のウエブスターは、5尺9寸(約181センチ)、43貫(約160キロ)の体格から“ビア樽式の肥大漢”というニックネームをもらい、すっかり人気者になった。
“夜逃げ”同然で相撲をやめたうしろめたさがあったのか、それともいまでいうところのイベント・プロデューサーとしての業務を大切にしたのか、浜田自身は――タキシードからタイツ姿に着替え、レスリング、ボクシングのエキシビションをおこなうことはあった――ほとんど試合には出場せず、制作総指揮・監督に全力を注いだという。
小島リサーチによれば、浜田庄吉がその後、どうなったのか、日本にとどまったのか、あるいは再びアメリカに渡ったのか、その結末を伝えるたしかな情報はないという。
文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
※「フミ斎藤のプロレス講座」第53回
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