番外編:カジノを巡る怪しき人々(1)

十年に一度のシュー

 38回に及んだ『ばくち打ち』第二章の連載も無事に終わり、すこし息抜きをしようと思う。

 10月中旬と11月初旬の2回、マカオに行ってきた。合わせて14泊の「取材旅行」だった。

 マカオに行けば行ったで、どうしても勝負卓に坐ってしまう。

 大手ハウスのプレミアム・フロアに顔を出すと、まあだいたいわたしの知り合いの誰かが、バカラ卓でカードを引いていることになっている。

 後半の滞在期間中、たまたま居合わせたわたしの古い日本の知り合いが、「十年に一度」(ヴェテラン・ディーラーの証言)というケーセン(罫線。出目のこと)を絞り起こした。

 すべてL字(ケーセンを示す電光掲示板で、ツラ=連勝が表の下に突き当たり、向かって右に折れること。出目の形がアルファベット大文字「L」となるので、そう呼ばれる)で、8デッキ・平均72クー(手)のシューが、初手からバンカーとプレイヤー数本のツラで終わってしまった。

 まさに「十年に一度」のシューであろう。

 たまたまこういうケーセンに出遭い、しかも恐怖を振り切ってその流れに乗れると、荒稼ぎができる。

 500万円の持ちこみ(デポジット)が、5億円にも10億円にも化ける。

 1億円のフロント・マネーが、100億円を超す。

 だから、博奕(ばくち)は面白い。

 だから、博奕は怖い。

 それで、博奕は止められなくなってしまう。

 そのとき、わたしは「奇蹟のシュー」の現場に居合わせなかった。

 すでにその日の取材も博奕も終え、ちいさな勝利に満足して部屋に引き揚げ眠っていたのである。

 相変わらず、ドジだ。

不可測の未来を可測しようとするこころざし

 14泊2回に分けたマカオ「取材旅行」は、「井川のアホぼん」がテーマだった。

 47歳といういい歳をこいたおやじのはずなのに、なぜか「アホぼん(京都祇園で、頭の弱い御曹司を指す言葉)」と呼ばれていた。

 大王製紙前会長・井川意高(もとたか)は、自社連結子会社から106億円の貸付を受け、そのほとんどをバカラ卓に張られたグリーンの羅紗(ラシャ)の上で、溶かしてしまった。

 報道では、そうなっている。

 報道ではそうなっているのだが、わたしはそう思わない。

 きっと、もっともっと負けているのじゃないか、と邪推する。

 最初は誰でも、借りた金で博奕など打たない。

 自分の金で打ち始める。

 自分の金が尽きたから、金を借りてまでして、取り戻そうとこころみるのである。

 これは報道されている、自社連結子会社から「アホぼん」が受けた貸付額を追ってみると、よくわかる。

 連結子会社から金を引っ張りはじめたのが、2010年5月から。

 わたしは約3年前から、「アホぼん」をマカオ大手ハウスのプレミアム・フロアで見掛けているので、すくなくとも2年間ほどは、自分の金で持ちこたえていたのだろう、と推察する。

 連結子会社から金を引っ張りはじめて、1年弱の時点(2011年3月末)での貸付額が23億5000万円。

 これが、2011年9月までのわずか半年間で、それこそ雪だるま式に100億円超まで膨らんだ。

 なぜか?

 借りた金を、博奕で勝って返済しようとしたからである。

 それまでにバカラ卓で溶かした金を、取り戻そうとこころみた。

 そういう博奕は、まず勝てない。

 それまでに失った金と、新規に借りた金の総量が多重のプレッシャーとなって、ほとんどの場合、打ち手を押し潰してしまう。

 博奕は、慣れなければ、大きな勝負に行けない。

 また同時に、博奕は慣れてしまえば、奈落への早道切符を買ったのと同様の状態となる。

 日常の金銭感覚を失う。

 大金が大金と思えない。

 なに、1000万円?

 そんなん、ワン・ベットじゃ。

 そうやって、地獄に堕ちていく。

 ――慣れねばならず、慣れてはならず。

 恐ろしいことだと思う。

 でも、打ち手はそこをしっかり心しないと、必ず破滅する。

 ――毎回初心に戻り、あたかも処女のごとく。

 勝負卓では、小心に臆病に、心を震わせ恐怖にあえぎつつ、おそるおそる脚を開くのである。

 ただし経験豊富な処女(!)であるから、時を迎えれば、思いっきりイク。

 彼女の「時の時(ノーマン・メイラーの言葉)」をしっかりと心得た処女。

 矛盾だ。

 しかし、本連載でも繰り返し述べてきたように、博奕の本質は、矛盾である。

 カジノの建物を一歩でも外に出たら、眼を回してひっくり返ってしまいそうな非日常な大金を、カードの配列の偶然に賭ける。

 なんの根拠もない。

 博奕に関する定義は無数にある。

 そのなかのひとつは、「不可測の未来を可測しようとするこころざし」が博奕、とする。

 それゆえ、大勝すれば、神をも凌駕した「全能感」を持ちうる。

 まっさらな愉悦に浸れる。

 そもそも、矛盾した快楽行為(あるいは絶望行為)が博奕なのである。

「井川のアホぼん」が、バカラ勝負卓に張られたグリーンの羅紗の上で、いったい総額でいかほどを溶かしたのか、わたしは知らない。

 経済力がある人だったから、連結子会社等から106億円の貸付を受けているとするなら、おそらく軽く百数十億円相当は負けていたのだろう、とわたしは邪推する。

(つづく)⇒「井川のアホぼん」と「サンユーさん」

PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。