日本とフィリピン、両国の防衛協力と戦時中の知られざる逸話(下)

ラウレル大統領

左がアメリカ軍に拘束されるラウレル比大統領(1945年9月15日大阪)

 フィリピンの防衛力整備に協力を始めた日本。実は両国には、戦争末期の1945年3月から終戦にかけて、ラウレル大統領の日本への亡命を受け入れたという関係がある。

 そこで、日本では教えられていない戦時中の日本軍兵士の知られざるエピソードを2話紹介しよう。

のちのフィリピン大統領を救出した神保信彦中佐


 日本は開戦と同時にアメリカが守護するフィリピンの攻略も開始した。フィリピンを統治するなかで、日本軍は、フィリピン軍を指揮したマニュエル・ロハスを捕えることになる。実は政治家であるロハスは、のちにフィリピンで戦後初の大統領となるような重要人物だった。

 その時、任に当たった神保信彦中佐は、日本の歴史に対する知識を持ち、「日本は天皇中心とした仁義の国」というロハスに心を動かされ、処刑命令が出ていたロハスの助命嘆願を行った。しかし、そのような行動が裏目に出て、神保は北支方面へと左遷されてしまう。

 中国で終戦を迎えた神保は戦犯として入獄。無実の罪で処刑されかけていた神保を救うため、彼と軍隊で懇意にしていた作家の山本有三参議院議員が、フィリピンの大統領となっていたロハスに連絡をとった。

 状況を知ったロハスはすぐに蔣介石に嘆願の親書を送る。そして、神保は釈放され1947年に帰国した。その後、神保は日本とフィリピンの友好のために尽力する。1978年に神保は亡くなるが、1993年には、ロハスを救った功績が讃えられ、ラモス大統領から隆子夫人に表彰状が贈られた。

フィリピン人に愛国心を教えた望月重信中尉


 フィリピンにおいて日本の戦局が悪化しはじめる中、拘束したフィリピン人ゲリラに対して、宣伝班の望月中尉は「日本はフィリピン支配を考えておらず、アジアを白人から解放したい」という教育を施し、次々とゲリラを釈放するなどした。

 この経験から、望月中尉はフィリピン青年に優秀な若者がいることを感じ、皇道精神の普及のため、全寮制の農業教育訓練所を組織する。ちなみに、訓練所には60名の定員に対して2000人もの応募があるほどの人気ぶりだった。

 後に卒業生は望月中尉の言葉に感銘を受けたと回顧している。望月は、まずフィリピンを愛すること。そして、日本とフィリピンが戦うようなことになったら、フィリピン軍の中核として戦うこと、を教えていたという。

 結局、望月中尉は、1945年の5月、第3期の教育計画を進めようとした矢先に、強盗との銃撃戦で命を落としてしまう。そして、1977年、訓練所の卒業生たちは、望月の遺族に感謝状を贈った。

 以上、神保中佐と望月中尉のエピソードを簡単に紹介したが、これ以外にも、戦争中の知られざる逸話を70話収録した『昭和の戦争の真実』(拳骨拓史著)が育鵬社から発売中なので、興味のある方はご一読いただきたい。

(文/育鵬社編集部A)

昭和の戦争の真実

私たち日本人が語り継ぐべき歴史がここにある




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